2014年12月2日火曜日

近代化を理解するための新書11冊

社会学に限定せず、近代化を理解するために使えるもの。*印は、参考文献リストがあってその先の勉強にもつながります。

  • J・ストレイヤー(鷲見誠一訳)『近代国家の起源』岩波新書 青919、1975年
  • 福田歓一『近代民主主義とその展望』岩波新書 黄1、1977年
  • 大塚久雄『社会科学における人間』岩波新書 黄11、1977年
  • 山住正己『日本教育小史―近・現代』岩波新書 黄363、1987年
  • 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る —近代市民社会の黒い血液』中公新書 1095、1992年 *
  • 藤森照信『日本の近代建築(上・下)』岩波新書308, 309、1993年 
  • 佐藤俊樹『不平等社会日本―さよなら総中流』中公新書1537、2000年 *
  • 小熊英二・姜尚中『在日一世の記憶』集英社新書 0464、2008年
  • 川北稔『イギリス近代史講義』講談社現代新書 2070、2010年  *
  • 瀧井一博『明治国家をつくった人びと』講談社現代新書 2212、2013年 
  • 細見和之『フランクフルト学派―ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』中公新書 2288、2014年 *

とくに順位はありません。古いものから新しいものという順番です。

2014年12月1日月曜日

卒論への道_2015(その4)

1.今後のスケジュール

  • まとまった調査時間は冬休み、春休みにしか取れない。夏休みは就職活動。来年の冬休みは卒業論文締め切り。フィールドワークは本格的にはじめる(調査の方向が分かる)までに時間がかかる。→ 冬休みには手を付けること。
  • 無理をせず、自分に向いた調査をしていくこと。好き嫌いより得手不得手。でもそれは、やってみるまで分からない。自分にもできる調査方法を考える。その調査方法で可能な研究をするように工夫。→ 絶対に試行錯誤の時間は必要。
  • 冬休みにうまくいかないことが分かったら、調査テーマや調査方法など切り替える余裕ができる。うまくいけば、就職活動に使う時間に余裕ができる。

2.調査をはじめる
2-1. 最初の1歩

  • ①現場をみてきて(フィールドワーク)、その報告。②自分の関心を本で勉強して、自分のものに組み立て直して報告。どちらかがなければ、卒論は絶対に転がりださない。
  • つねに自分の興味のコトバ化と、自分にでも可能な調査のやり方を考える。前者は人にしゃべったり、書いたものを人に見せることでしかできない。しゃべる(output)だけではすぐに行き詰まるので、関連文献を読んでネタを仕入れる(input)。後者は現場に足を運んで考えるしかない。いきなり現場で「調査」なんかできないから様子見の時間が必要。取りかかりは早く。
  • 文献を読むことは苦手でも避けられない。問題設定のしかたや調査方法、事例の解釈などポイントを絞って読んでいく。先輩の卒論は複数読んでおく(ある意味受験における過去問のようなもの)。

2-2. フィールドワークについて

  • インタビューがなくても、ノート(観察内容、自分が気づいたことのメモ)を必ず取る。帰ってそれを見返す。自分のメモの内容から、自分の関心の方向を客観的に知る。
  • 自分の関心が「対象」ではなく「主題」的に分かってくれば、文献もさがしやすい(表1)。
  • 「主題」的に分かってくれば、次にどんな調査をしていけばいいかがわかってくる。調査が難しそうだったら方針を変えていく(表2)。

2-3. 2歩目以降(ここからは助ける)

  • 1歩目の報告はA4紙1-2枚にまとめて報告してください。その後のことについてアドバイスします。調査をうまく運ぶためには調査プロセスのふりかえりが必要。
  • 関心ある主題をもとにした調査の方針立て(問題点抽出)、文献さがし。

3. 2015年度のゼミ

  • 卒業研究2歩目以降の報告(4年生)、文献勉強発表(3年生)の2本立てで一緒に
  • 先輩の卒論目次の例をみて、必要な作業を理解する(4年生)
  • 調査データ報告と卒論目次バージョンアップ(4年生)
  • 各自の重要文献紹介(4年生)
  • テキスト、文献発表(3年生)


表1 関心の対象から主題的な関心へ(例)

関心の対象 関心ある主題
A カフェの空間 家族にとって安心な空間と若者にとって居心地のよい空間(それぞれがなにを重視するか)
B 地域スポーツクラブ 余暇時間の一部をともに過ごす同地域の社会人どうしの付き合い方(クラブ内の人間関係でなにが注意されているか)、話題になる「地域」と「家庭(夫婦・親子)」イメージ
C ゆるキャラ 二分化するなかの観光客向け/地元向けと地域イメージ形成
D ロックのライブイベント 周辺参加者による中心の構成、ひとつのイベントについて周り(スタッフ、オーディエンス)から中心(イベント、出演者)がつくられていくプロセス
E 地方駅前の大衆演劇館 (「伝統的」でない)芸能と地域社会との関わり
F 青森県(地方大学)での方言 地方大学学生のあいだで優勢な方言がどのようにその位置を得るか(「方言主流社会の方言と標準語」再考)


表2 主題的関心から調査方法を検討(例)

関心ある主題 調査法
A 家族にとって安心な空間と若者にとって居心地のよい空間(それぞれがなにを重視するか) ・顧客層から家族型空間、若者型空間、融合型空間のように分けて場所の観察調査
・各店内の客の滞在時間、滞在の様子などの観察調査
B 余暇時間の一部をともに過ごす同地域の社会人どうしの付き合い方(クラブ内の人間関係でなにが注意されているか)、話題になる「地域」と「家庭(夫婦・親子)」イメージ ・スポーツクラブへの参加、メンバーの把握、メンバーどうしのつきあいの濃淡などのかんじを観察でつかむ
・年間を通した活動実態
・メンバーどうしの会話の観察
・メンバーのプロフィール(いわゆるフェイス把握)
C 二分化するなかの観光客向け/地元向けと地域イメージ形成 ・着ぐるみの中に入ってキャラ目線でイベントをみる
・役所の観光課、広報課
・キャラの露出(プレゼンス)観察(どんな印刷物、どんなところでどんな人の目に触れているか)
D 周辺参加者による中心の構成、ひとつのイベントについて周り(スタッフ、オーディエンス)から中心(イベント、出演者)がつくられていくプロセス ・webサイト上にライブのHPがあればそこに寄せられるスタッフやファンのことばをすべて収集・分類
・ライブの現場での観察
・オーディエンスどうしの会話やファンサイトでのやりとり
・会場グッズ種類、値段など
・オーディエンスやスタッフがどのように出演者と直接・間接に接するか、どのようなスタッフがいるか
E (「伝統的」でない)芸能と地域社会との関わり ・上演プログラムと内容、各劇団プロフィール
・観客層の把握、各劇団と駅前小屋との年間予定など
・鵜飼正樹先生の先行文献
F 地方大学学生のあいだで優勢な方言がどのように位置を得るか(「方言主流社会の方言と標準語」再考) ・佐藤和之先生の先行文献
・自分の身の回りの観察、これまでに思い当たる場面(記憶)の列挙
・大学内の場の種類(ゼミや講義、学食、サークルetc.)
・じっさいの会話の録音データの収集

2014年11月16日日曜日

機能分析(順/逆、顕在的/潜在的)

社会学Aではこの2週、ふたりのアメリカの社会学者、タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons; 1902-1979)とロバート・K.・マートン(Robert King Merton; 1910-2003)による理論の勉強でした。

マートンは、ある社会現象が全体社会に与える効果という因果関係を、順機能/逆機能、顕在的機能/潜在的機能のように分けて考えています。そうすることによってなにがみえてくるのかということをおさらいしましょう。

機能」は生物学用語から。有機体全体(社会システム)の存続・維持に(正・負に)貢献する、という観点からみた合目的的(因果的な)作用のこと。

  • 順機能;「社会システム全体に適応や調整を促す機能」。あるいは社会事象Aが社会事象Bに果たしている機能のうち、Bに正の方向で貢献するもの。
  • 逆機能;「社会システム全体に適応や調整を減じる機能」。あるいは社会事象Aが社会事象Bに果たしている機能のうち、Bに不利な方向にはたらくもの。

どんな社会的事象でも、おそらく順/逆双方の機能をあわせ持っています。たとえば官僚制(ビューロクラシー;bureaucracy)は、文書による情報・意思伝達とピラミッド型の位階序列によって効率的運営を達成する、近代的な組織の代表格です。どんな企業組織も官僚制組織をお手本にしていないものはありません。一定以上の規模の組織が資源を得てその配分をおこなったり、さらなる資源獲得のためのプロジェクトに従事したりするさいに、官僚制組織は合理的なのです。ところが、「官僚主義」「お役所仕事」としてよく知られている通り、官僚制による組織運営には杓子定規的な規則適用、前例主義(保守的)、事なかれ主義(責任回避)、縦割り政治(セクショナリズム)などがその「逆機能」として挙げられます。

なぜこうしたことが起きるのか。官僚制の逆機能の場合についてマートンは、官僚組織内部に手段の目的化という転倒が起きていることを指摘します。 [マートン 1961; pp.181-189]

役所の役人がわれわれにつっけんどんにみえる対応、機械的な対応をするのには正当な理由があります。かれらはその役職についた人員なら誰でもその仕事を規則に従ってこなす、という点で責任を負わされた存在です。ですからかれらのふるまいは、ほかの人員でも代替可能であるように標準化されていますし、規則に従い、かつ分担された責任の範囲内で対応します。変な言い方ですが、まさにかれらが機械的にふるまうことによって、われわれの「役所のその窓口にこの書類を持って行けば、納税者としてこういう行政サービスを受けることができる」という期待が保証されているのです。チェーンのファストフード店員の対応も基本的に同じこと。

つまり役人にとって、機械的な態度は利用者からの信頼を得るための外装、手段なのです。しかし、そうした態度が重要であるという規範だけが先行し、役人がそうふるまうこと自体を目的化してしまうと、転倒が起こります。役人は上役からつねに「規則に服せ、慎重にふるまえ」と言われる。利用者からすれば「融通が利かない」「(職務と責任の分担の原則ゆえ)ある窓口から別の窓口にたらい回しにされる」…etc. といったこと(本末転倒)が起こるわけです。

機能分析の話に戻りましょう。これらの機能は順/逆のほか、社会の中の人(成員=メンバー)にとって明らかかどうかによって以下のふたつに分けて考えます。

  • 顕在的機能; 一定の社会システムに適応的ないし調整に貢献し、システム内の参与者に意図され、認知されている機能。ある社会事象が果たしている機能で、成員がそれを分かっており、かつ公にも認められている機能。
  • 潜在的機能; 参与者に意図されず、認知されていないもの。ある社会事象が果たしている機能だが、成員は分かっていないか、公に認められていない機能。

この2 つを区別する意図は、行為の意識的動機とその客観的結果との混同を防ぐことにある、とマートンは言います。つまり、 Weber『プロ倫』が、新教徒の内面化した生活・職業態度が資本主義的な企業家・労働者の心性と親和性が高く、専門教育によってトレーニングされた高度な労働者や企業家を生んだという意外な(当時は誰にもはっきりと知られてはいなかった)効果を発見したように、ある社会事象の意図せざる社会的帰結をも見いだすことにあるのです。これらの順/逆と顕在/潜在との組み合わせで4通りの機能を想定できます。たとえば上記の官僚制の逆機能については、世間一般が百も承知であるとマートンは言っていますので、官僚主義は官僚制によって回っている社会にとっての「顕在的逆機能」ということになる。

マートンの出しているもうひとつの有名な例に、「地域社会での政治ボス組織の機能の例があります[マートン 1961; pp.65-71]。地方都市社会の政治ボス組織は、地域住民が困っているとき、インフォーマルに「職探しの際の口利き」「賄賂まがいの支援」「いざこざの解決」「奨学金の世話」などの支援の手を差し伸べ、人気とりをおこなって選挙の票を得る。一方で、行政や慈善団体は同じ人びとにフォーマルで「正しい」理念にもとづいた支援をおこなう。人びとにとっては、どのみち自分たちにアクセス困難な資源や機会を得ることができる。だから地域社会の貧しい人びとや困っている人びとにとって、政治ボス組織も行政あるいは慈善団体も、いっけん機能的に等価な、選択的構造のもとにあるようにみえる。

どうせ同じなら、政治的利害関係の絡む政治ボス組織とギブ&テイクの関係を結ぶ(これが支配-被支配関係に発展するかもしれない)より、行政や慈善団体から正しいサーヴィスを受ける方がいいのでしょうか? そうとは限らない。「援助を受けること」はそれがいかに憲法で保証された正当な権利でも、上から目線の施しを受けることは人びとの自尊心をいくらか損ねるということがある。おまけに行政やある種の慈善団体は、その人が援助を受ける資格があるかどうか、いろいろの書類に記入させることを通して個人的な事情を調べ上げ、詮索する。法定の援助を受けるまでのこうした手続きは当然、本人らの自尊心を傷つける。煩わしい手続きを求めてくる恩着せがましいフォーマルな援助よりも、インフォーマルだが物わかりのよい政治ボス組織が「仲間」として差し伸べる手っ取り早い援助の手のほうがずっとましということもあるのです

ためしにこの例に出てくるインフォーマル機関、フォーマル機関の援助・支援プロセスを、機能分析を使って説明してみてください(社会は一枚岩ではない、誰にとって顕在的/潜在的か、誰にとって順/逆機能かも問題にせよ)。

社会学者は昔から社会問題についての専門家とされていますが、マートンは、社会問題についても「顕在的/潜在的」社会問題の四象限マトリクス表を使って、社会の中の人には見えない問題を、社会の外から発見することに、専門家である社会学者の役割を見いだした【図1】。つまり、潜在的社会問題の発見、「偽の社会問題」の見いだし、あるいは顕在的社会問題のなかの順機能/逆機能の見いだしこそが重要であり、それは中にいたままでは見えにくいものなのだ(ジンメルの「よそ者」の話、アフリカ農村で調査する人類学者の話を思い出しましょう)。

【図1】


【文献】
RK・マートン(森東吾、森好夫、金沢実、中島竜太郎編訳)『社会理論と社会構造』みすず書房、1961年(原著は1949年に発表)

2014年11月15日土曜日

社会システムの一般理論(AGIL)

社会学Aではこの2週、ふたりのアメリカの社会学者、タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons; 1902-1979)とロバート・K.・マートン(Robert King Merton; 1910-2003)による理論の勉強でした。

パーソンズは、数学の公式のような、あらゆる社会集団がシステムとしてそれ自身を維持するありかたを示すAGIL図式を考えた。

社会の秩序はどうして可能になっているのか。17世紀のトマス・ホッブズ『レヴァイアサン』は「自然状態は万人の万人に対する闘争だ」と言った。だったらなぜ、強制力で力づくに押さえつけられずとも、現実の社会は戦争状態ではなく平和状態が常なのか。われわれは平和状態がよい・正しいからだとか、法律があるからだとか思って済ませがちですが、こういうことを「なぜ」と考えるあたりが社会学者です。

おさらいです。社会学では、社会の単位は個人ではなく、個人どうしの相互行為だと考えます。この相互行為の履歴が蓄積されることで、パターン化され、「こういうときにはこうふるまうものだ」「こういう場ではこれはアウト」などの暗黙の了解、規範や文化というものが生じてきます。こうしたものがない場合、社会のなかのそれぞれの個人がそれぞれメリットを追求するような状態では、ある個人は、相手の出方が分からないゆえに、自分の行為選択が困難な状態に陥ります。これが行為の二重条件拘束性(double contingency)で、こういう状況を理解するのにもっともシンプルなモデルが、ゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」でした。

お互いに相手を出し抜いたり、相手の出方におかまいなく自分のメリットを追求するよりも、協調的にふるまったほうが結局得(win-win)となる。相手の出方がわからずに自分本位にふるまえばつぶしあいとなり、結果いいことはない。「囚人のジレンマ」が教えるのは、こうしたジレンマ状況。じっさいの社会にはこれにあてはまりそうなセッティングは無数にある。だから、いちどかぎりではない、中長期的な関係を持とうとする人びと(親友、学生と教師、商売のお得意取引相手、外交の相手国 etc.)はジレンマ回避のために協調します。個人でも企業でも、中長期的関係を前提にお互いつぶしあうことを避ける、基本「win-win」の枠内での(相手にとってwinが少しでもあり、自分にとって少しでもwinが多いというところでの)自己得利益追求をしたほうが、うまくいきます。

さて、パーソンズは社会的な行為を方向づける要素として次の4つを想定しています。目的、手段、条件、規範的オリエンテーション。行為に目的と手段があるということは分かりやすい。あとの二つは;

  • 条件; 行為者を取り巻く環境や状況のうち、行為者が制御(コントロール)できない要素。たとえば自然環境や経済状況、法律などの外部からの強制的規制。制御できるものが「手段」。
  • 規範的オリエンテーション; 社会の築き上げて来た価値観や規範で行為者に内面化されたもの。「条件」とは違い、外部からのどうしようもない強制があるわけではないので、ほかの行為選択もありうるにもかかわらず、人は自らのふるまいをすすんで規制していく。

われわれが戦争状態や行為の二重拘束性に基づいたジレンマに常に陥らずにすんでいるのは、これらによって行為を方向付けられたうえで、最適な行為を選ぼうとしているからなんですね。

じゃあ、行為をとりまく「社会システム」のほうはどうなっているか。社会システムにはさまざまなあり方がありえますが、そのなかで相対的にみて一定なもの(要素)があって、これを構造と呼びます。個人が社会に参加することを考えるとき、構造的な要素として考えるべきは「役割」、「集合体」、「規範」、「価値」であるとパーソンズは言います。「規範」「価値」あたりは想像つきますね。「集合体」は社会集団で、そのなかにいる個々人は「役割」を負っています。ここが重要。

先に、行為者がみずから行為を調整し方向づけていくメカニズムを説明しましたが、社会のなかではそういう調整が働くということを皆が知っており、かつ、中長期的な関係を持とうとする人たちは協調のため、お互いが分担している役割を意識する。その役割分担がうまくいったとき、社会内のコンフリクトは抑制される。パーソンズはこの状態が「本来の行為の二重条件拘束性にもかかわらず、役割期待の相補性があるゆえに、成り立つ」と表現した。

相互行為が成り立ち、社会が回っているとは、パーソンズ的にはそういうことです。以上が長い前説で、ようやくAGIL図式のおさらいです。

社会がシステムとしてあるていどの恒常性を保ちながら作動し存続していくためには、まず、


  1. そのシステムと、システムの外部環境との関係を調整する
  2. そのシステム内部の成員(参与者、社会のメンバー)の関係を調整する

というふたつの機能を必要とします(機能要件)。

この2つの機能要件はそれぞれまた2つに分かれます。こうして4つに分かれた機能を担当するものを、それぞれサブシステムと呼びます。


  • 1-1 環境適応(Adaptation)機能担当; 経済システム。外部の環境へ適応し、活動に必要な資源を調達する。
  • 1-2 目標達成(Goal attainment)機能担当; 政治システム。外部の環境にはたらきかけて目標を達成しようとする。
  • 2-1 統合(Integration)機能担当; 社会的コミュニティシステム。成員の内的関係について、秩序立った活動を実現すべく役割分担など組織化する。
  • 2-2 潜在的パターン維持・緊張処理(Latency)機能担当; 信託システム。具体的には家族、宗教、価値など。成員相互の融合、緊張の解消のために機能し、パターンの再生産に貢献する。

これら4つのサブシステムそれぞれの頭文字を取って「AGIL」です。で、これを四象限図示すると以下のようになります【図1】。社会システムが発達するということは、この4つの機能の分化・発達を意味し、逆に言えばこれらの機能を充足し発達させることができなければ、その社会システムは存続が危ぶまれるような状態となるか、外部環境との境界を維持できなくなって、環境と同化することになる。


【図1】

これをこのような四象限のマトリクス図にすることの第1のポイントは、このAGILのそれぞれ隣り合わせのサブシステムどうしは浸透(相互影響)し合い、かつ制御のハイアラーキー(hierarchy;ヒエラルキー、序列)があるという点だ。この序列は、エネルギーが低く情報量の多いサブシステムが、エネルギーが高く情報量の少ないサブシステムを制御する。その序列はL→I→G→Aで、潜在的パターン維持機能を担当する信託システムは統合機能担当の社会コミュニティシステムを統御し、その社会コミュニティシステムは政治システムを、政治システムは経済システムを統御する。ただし、これは数学の公式とちがって、すべての現象を代入してそのままL→I→G→Aのような制御関係が得られるわけではない。隣接するサブシステム間の関係のうち、ある側面に着目するとみえてくる制御関係を見いだすためのものである。これがパーソンズの説明でした。


【図2】

四象限図示の第2のポイント。この「社会システム」の各象限に配置されたサブシステムは、さらに4つのサブシステムに分かれる【図2】。また、社会システムは「行為システム」というさらに全体のシステムの四象限のなかのひとつの象限を占める。さらに「行為システム」は全体システムである「人間の条件の一般パラダイム」の四象限のなかのひとつの象限を占める、というように、パーソンズの一般理論モデルは「箱のなかの箱」構造を取るからだ【図3】。さすがにここまでいくと、これが本当に一般的な説明力をもつのかどうか、私にもよく分からない。ひとまずみなさんは「社会システム」のAGIL【図1】の説明力を試してみれば、それで大丈夫。


【図3】



参考文献
タルコット・パーソンズ(倉田和四生編訳)『社会システムの構造と変化』、創文社、1984年
恒松直幸・橋爪大三郎・志田基与志「Personsの構造-機能分析:彼自身による展開/その批判的再構成」、『ソシオロゴス』第6号、pp.1-14、1982年

2014年11月2日日曜日

メモを取りながら読む、メモをみながら話す

先週の社会行動論Aでは、課題文献内容の発表を3人の方々にやってもらいました。こちらから事前に言っておいたことは;

  • レジュメ(印刷物)は必要ならばA4紙1枚。それ以上はダメ。レジュメなしでもいい。黒板(板書)も自由に使うこと。
  • 図表は重要なデータだから、図表の解説を中心に、易しいことば(自分のことば、と言ったかも)で説明する。
  • ひとりあたり発表時間10分、3人で30分。

の3点だったと思います。

課題文献は、以前のタイプ分けで言えば①のタイプ。図表資料の読みこなしはみなさんすでに身に付いているということは、改めて確認できました。文献全体の流れのなかで、その図表がなんの説明のために出てくるのか、という点についての理解も、たぶん・・・大丈夫。

3人ともレジュメなしの口頭発表で、図表の読みは外している人はいませんでした。ただ、図表前後の全体の流れの説明が長く、文献のなかの「書き言葉」で話されたために、あまり頭に入ってこなかった。黒板も、使われませんでした。発表時間も、10分より長くなっている人もいた。

レジュメを出すなら1枚で、と言ったのは、何ページにもわたるレジュメを延々と朗読されても、みんなの(私も)頭にはなかなか入らないからです。レジュメがなくても、文献のなかの書き言葉をそのまま話されたら、ほぼ同じことです(笑)。

  • 文字の情報を聞いている人に出すなら、ポイントだけに絞って少なく出すか、黒板に書いたりする。

おそらくみなさんがもとの文献にある説明部分を抜き出して長々と読んでしまうのは、まちがいのないように、という心配からでしょう。でも伝わりにくければ意味がない。それに、もとの文献はみんなすでに読んでいるのです。

自分が読んで理解するときには、かならず自分なりにまとめて頭の中に入れているはずです。その「自分なりのまとめ」をうまく人に伝える練習が必要です。そのための工夫はどのようなものがあるか、これからの講義で発見していきましょう。

ひとつ言えること。それは;

  • メモを取りながら読む、メモをみながら話す。

ということです。私は講義の時間に、「書き言葉」ではなくずいぶんくだけた「話し言葉」を使ってみなさんに話していると思います。それがラクだからということもありますが(笑)、みなさんにも伝わりやすいと思うからです。そして重要概念を表す社会学用語や図による説明など、ポイントだけ板書しています。みなさんには、自分の耳と目、そして頭を通してノートをとってほしい。

勉強する文献を読むときも同じで、ノートというと難しく思われるので、メモでいい。紙にメモをとりながら読んでください。メモを取るときには、文献にあるキー・ワードの抜き書きだけではなく、文献のなかの論理の流れをかんたんなことばに翻訳したフレーズや「→」などの記号を使って表すようにしてみてください。

そのメモが、あなたが文献内容を頭のなかに入れるときに圧縮変換するためにした知的作業。こんどは、そのメモをみながら話してみてください。そのまま読むわけにはいかないのですが、すぐに文献にもどるのではなく、文献を読んでいたときの自分の頭の中にもどって、みんなにしゃべる、ということをやってみましょう。

2014年11月1日土曜日

論点ディスカッション(その2)

論点ディスカッションで、これまでみなさんが出してきたレジュメは、「論点の提示」と「議論のための資料の提示」のふたつの要素からなっています。ずっと「論点の提示」の部分が弱いために(絞り込めていない、論点でか過ぎ or ばくぜん)、「議論のための資料の提示」の部分がメンバーに丸投げとなり「さあ議論しましょう」と言っても、なんのためにこの資料が選ばれたのか、どういう方向で議論すればいいのかわからない、ということが続いてきました。このあいだからダメ出ししている「どうあるべきか」という論点設定は、専門家を集めたパネルディスカッションなら成り立ちますが、ゼミはそうではない。「どうあるべきか」では、これまで議論が盛り上がらなかったし、その問題設定のなにが失敗しているのかも分かりにくい。

そこで提案ですが、レジュメの「論点の提示」の部分でかならず、みなさんがすでに読んでいるテキスト『社会学』のなかで関連する具体的な部分を指示し、そこでどのようなことが論じられているかを確認することにしたらどうかと思います。テキストや概説書は、社会学がテーマにしていることを網羅的に扱おうとしているので、論点でとりあげるようなひとつひとつの小テーマについてはていねいに扱えていないのですから、それをさらにていねいに議論していく(「詳しく調べる」だけではなく)ことができます。そして、テキストはみなさんが読んでいるのですから、議論の前提を共有できています。

これまでは、テキストのなかにあるキー・トピックをトピックだけ拾ってきて、それをキーワードにした検索で資料を拾って、たまたま出会った数少ない資料をもとに「〜べきかどうか」という丸投げにもちこむ形になっています。そうなるとテキストを読んでいるかどうかより、トピックについてなにか知っているか、意見を持っているかどうかというだけの話になる。社会学に関係ない。

これまで少しいいかなと思ったものは、テキストとは少し別角度からトピックに接近していて、比較的面白い資料を調べてもってきているという点があったからですが、でも、どこまでテキストの内容と関連づけられているのかが不明だという点で、やはり勿体ないものでした。資料をいろいろ持ってくる前に、論点設定の方に時間をかけたほうがいい、と私が言うのはそういうわけだからです。論点設定がしっかりしていれば資料がぜんぶ集められていなくても(そもそも資料なんてぜんぶ集められるわけがない)、この論点を明らかにしていくにはこういう資料とか調査が必要だ、という議論ができます。資料はいろいろもってくることよりも、どのような観点から選ばれているかが明確であることの方が重要です

そこで、さきほどの提案に戻りますが、レジュメの「論点の提示」の部分でかならず、テキストの具体的な関連部分を指示し、あるトピック(社会現象)や分析・解釈の枠組みを論点に取り上げる場合に、まずテキストの原文でそれがどのように説明されているかをいったん共有しそのどこに切り込んでいく論点かを明確にしてからすすめればいいのです。

その箇所(何ページ)で、こういう文脈で(その章全体の流れのなかで)こういう意味で取り上げられているこのトピックについて、もっと限定した議論をするためにこの資料を用意しました、とか、ここでこういう現象やトピックを分析・解釈する枠組み(モデル)として出てきているこれこれ(これはたとえば「多重化するシティスンシップ」のように図示されているものでも、「中流階層化と文化資本の普及」についての本文中にある説明でもいい)について、具体的な事例から検証するために、という形にすればいいと思います。そうすれば、どのような観点から参考資料が提示されているのか(そしてそれが妥当な資料選択なのかどうか)もわかります。

もちろん「もっと限定した議論」「具体的な事例から検証」というところについては、そのままでは漠然としています。方向としては、いくつか考えられます。テキストに書かれてある主旨の延長線上にある議論。これはたとえば、テキストの説明は説明としては分かるのだけど、じっさいの社会現象がそれで説明しきれるかどうかは分からないので、その点を確かめることのできるデータを用意した。あるいはテキストの説明は説得的なので、テキストで事例として取り上げられている現象とは別の現象でもその説明枠組みが使えるかどうか、試してみた。というようなもの。また、テキストに書かれてある説明主旨に対抗する方向の議論もありえます。たとえば、テキストで取り上げられているトピックは、別の角度から説明もできるし、そちらのほうがその現象にとっては重要な説明だ。というようなものです。

テキストで述べられていることとレジュメで提示された論点とが関連づけられていて、担当者が、自分たちの出す論点について考えてきているのなら、なんでもいいんです。そして、論点を設定してじゅうぶんに議論を盛り上げることは簡単なことではありませんから、失敗しても誰も不思議には思いません。失敗はどこにあるのか、という議論ができる材料があれば大丈夫なんです。まあがんばってみてください。

【文献】
長谷川公一、浜日出夫、藤村正之、町村敬志著『社会学』、有斐閣、2007年

2014年10月28日火曜日

論文の読み方

ある地域について調べて書かれた社会学の論文には、次の3つのタイプ(あるいは3つの要素)があります。

① 量的データがおもな情報となる論述(世の中の多くの報告書、グラフと表が多い)
② 理念(社会学の術語)を駆使して抽象的な論述がなされているもの(理論、概説)
③ 具体的な個々の事例を質的に記載していくもので、①や②との総合が多い(事例研究)

タイプの違いは、これらの3つの要素の割合によります。社会行動論Aでは③を読めるようになることがゴールです。

ほとんどの論文は、次のような構造(全体構成、目次)になっています。

  1. 論述の目的
  2. 調査方法、調査地
  3. 具体的な事例の内容
  4. 事例に対する解釈
  5. 考察や議論、残された課題点

みなさんは、①タイプを読む読み方はすでに身につけています。どの論文にも多かれ少なかれ入っている要素②は、もう少し慣れることが必要です。これからも随時、講義でサポートします。③タイプ(事例研究、case study)は以下を押さえていく要領で読んでいきましょう。

  • 論述の目的はなにか、なにを明らかにすると言っているか(目的を導きだすための理屈を理解する必要があり、要素②がかかわる。やや難)
  • どのような調査方法、調査地か。なにをおもな資料にしているか(これは、みれば分かる)
  • 事例の内容(具体的で細かいので読み疲れることがある。疲れたらいったん飛ばして「解釈」に先回りしてもいい)
  • 図表で表されたデータは必ずよくみて理解する(これはできなきゃダメ)
  • 事例に対する解釈(この解釈は事例を根拠にしているはずなので、解釈を読んでから事例を見返して、その解釈が説得的なものかどうか、本当に事例が根拠となっているといえるかどうか)
  • 考察や議論は、最初に設定されている目的にたいする答えになっているか


2014年10月23日木曜日

統計を眺めよう

昨日の講義はMax Weberをあつかいました。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の導入でかれは、

統計によれば、近代的企業の資本家や企業家、上層熟練労働者、商業教育を受けた労働者ほか高級労働はプロテスタント(新教)の割合が高い(総人口に占めるプロテスタントの割合に比べて高い)。住民間で職業分化や社会層分化が起きているところは同じ傾向がみられる。なぜか。

という疑問から出発しています。つまり、統計を眺めていて発見した事柄から出発しています。これは本のつくり上こうしているだけのことで、じっさいにはその前にいろいろの下調べや観察があったにちがいありませんが、面白い導入です。謎解きの始まりで、わくわくします。

ところで講義でも伝えましたが、ここで注目してほしいのはこの本の原著が書かれた1904-05年の時点ではすでに統計が国家によって整備されていたという事実です。さまざまな人びとの交通がさかんになった近代前期のにぎやかな都市には、SimmelやWeberの暮らしたベルリンに限らず、多くの職業・経歴の人々が生活していました。

つまり人口流動性が高まり、いろいろなプロフィールの人が集まってきた都市こそは、「住民間で職業分化や社会層分化が起きているところ」。〈社会〉や〈秩序〉がなぜ可能なのかを考え、近代化ということについて考える学問である社会学が生まれ、発達したのもそうした近代都市の発達があったからなのです。各地域、各国で統計があれば、比較も可能になる。

統計のなかでは、こうしたさまざまな人々が数量化され、カテゴリ・属性によって分類されて把握されます。『プロ倫』の冒頭にWeberが持ち出しているのは1895年の「職業統計」であり、ここでは少なくとも職業や宗教という属性が指標となって整理・把握されていることがわかります。アフリカの国に行けば、いまでも人口統計の下位区分には「民族集団(ethnic group)」があります。

このような統計は、人びとから個性をいったん捨象して集合(人口)として整理・把握し、社会の実勢をみようとします。これは近代になって生まれた社会の統治技法でもあるのです。(この話は、長くなるのでまた別に。統計の歴史についてのお勉強はこちら

Weberのように、統計を眺めてなにか論点や作業仮説(research question)をみつけてみましょう。大きく分けると、統計には実態調査にもとづくものと、意識調査にもとづくものがあります。前者の代表は国勢調査、後者の代表は世論調査でしょうか。

国勢調査は、日本での人口センサス(Population and Housing Census)の呼び名です。1920年から5年ごとおこなわれていて、西暦1の位が「5」の年に簡易調査、「0」の年には大規模調査を行います。規模の大きさ(日本全域)と、実施の歴史の長さがあって、地域間比較や経年変化をみるには格好の材料です。実施主体の総務省統計局のwebサイトから、内容をみることができます。国勢調査はこちら社会生活基本調査なんてのもあります。

世論調査は、目的や実施主体さまざま、多種類あります。おすすめは、社会学者が中心になって企画しNHK放送文化研究所が実施している日本人の意識調査で、これは16歳以上を対象に「生活目標」「人間関係」「家族」「仕事」「政治」などの項目について質問票を使って調べたもの。1973年から5年ごとに実施、最近のものは2008年に実施されて、『現在日本人の意識構造 [第7版]』(NHKブックス)にまとめられています(調査で使われた質問票も載ってます)。ネタの宝庫。機会があったら、統計を眺めてみましょう。


【参考文献】
マックス・ウェーバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、改訳版1989年(原著は1904~1905に発表)
NHK放送文化研究所編『現在日本人の意識構造 [第7版]』NHKブックス、2010年

2014年10月21日火曜日

なぜ「論点ディスカッション」がうまくいかないか?

今日言ったことをまとめてみました。

  • いつも「~すべきかどうか」という論点提起のしかたをしている →ある事象(社会的出来事や社会的な事実)が「どうであるか」という解釈・分析の妥当性を論点にする方が社会学の議論にしやすい。

  • 論点が、テーマでかすぎ問題を抱えている。そのでかすぎテーマを「~すべきかどうか」で片付けようとしている。 →論点をしぼる。テキストの章のなかに近い小テーマをさがしてみる。1カ所でも、複数カ所でも関連小テーマを見つける。それをもとに考えてみる。

  • 新聞記事を材料にしたものが多い →時事社会ネタを拾うのはとてもいい。具体的トピックなのでいくつかの小テーマがそのなかにみつかるから。だけど、新聞記事だけでは絶対的な情報量は足りないし、いくつかの小テーマが拾えるという意味ではテーマは拡散する。どこかに焦点をしぼって統計資料や別の文献を調べてくる。

  • 全部やってこようとすると作業が大きくなる。きっかけになる資料(新聞記事だけだったとしても)をもとに、テキストをみながら論点を絞る作業に時間を取る。そのほかの資料集め・読み込みは時間切れとなったら「どのような資料が足りないか」などを議論すればよい。

  • テキストの章の関連小テーマについて、分析・解釈枠組みや整理のしかたで使える箇所をみつける。みつけたらそれを利用して、自分でもってきた資料から考えたいことを相手に試作品(仮説、図表なんでも)を作ってみる。それを、どのようにしてより洗練させるかを議論すればよい。

2014年10月17日金曜日

拡張されたdesign概念:Kari-Hans Kommonenさん講演

10月14日(火)16:00-18:00に、土手町コミュニティセンターでフィンランドのAalto Universityのメディア学科、Arki research groupのKari-Hans Kommonenさんの講演があった。以下は、ゼミメンバーに送ったその予習のためのノート。

 * * *

コモネンさんは、デザイン(design)についての広い考え方を提案し、応用を呼びかけている方です。ふつう、デザインということばは、製品デザインとして想定されます。製品デザインでは「かわいさ」「かっこよさ」のコンセプトだけが目指される場合もありますが、基本的にはその製品の用途に即した「わかりやすい使いやすさ」が欠かせません。座れない椅子は、美術の世界では作品となりえますが、デザインされた製品とはなりえない。

カフェの内装やテーブル、カウンターなど店内備品の配置、椅子の堅さ、流れている音楽の種類とボリューム調整などもデザインです。お客の動線や回転を考えて作られています。そういうデザインがちがうから、家族連れをターゲットにしている店とビジネスマンや若者をターゲットにしている店とでは、雰囲気がちがうのです。このようにわれわれの知っているデザインは、デザイナー(設計者)の意図(intention)があり、その意図に従ってわれわれが製品(あるいはお店のような空間)を使う、というようにできています。

でも、これはある意味「狭い」デザインの考え方だというのです。コモネンさんはもっと「広い」意味でデザインを考えよう、と言います。どういうことか。デザイナーが意図して制作したもの以外にもデザインはある、というのがまずひとつの主張です。たとえば蜘蛛の巣、たとえば森の中の石などにもデザインはある、というのです。石は椅子ではないのに、われわれは石に腰掛けるということがあります。ちょっと哲学的な話ですね。

石や樹木のような自然物は「ある用途のためにある」製品ではないけれど、人類はずっとそれを使ってきました。これもある種のデザインだというわけです。デザイナーではないわれわれも「腰掛ける」という行為によってそのとき石をデザインしているのです。さらにいえば、製品にせよ、われわれはデザイナーの意図を100%理解し反映した使い方をしているとは限りません。意図からはみでるような使い方を、われわれが実践して新たなデザインを生み出していることもあるのです。

われわれは赤ちゃんから大人に成長する過程で、みようみまねを繰り返して「それらしくふるまう」ように成長します。だけど、なぜそうするのかという「意図」や「理由」をいちいち理解していろいろにふるまっていることは、じつはそれほど多くない。そして他人のふるまいを真似るといっても、各自それぞれのまね方があって、もとの行為を100%復元できているかどうかは、わからないのです。その100%復元されたものでない行為を、またほかの誰かが真似たりなぞったりして、われわれの社会や人間関係は動いています。

まとめると、コモネンさんの言うデザインの「広い」考え方は、「人は人や事物との関係を行為によってつなぐ実践(practice)をつねにしている。そして、実践によってその事物やおたがいの行為に少しずつあたらしい用途や意味が加わっていくのなら、これも広い意味でのデザインだ」という主張になるでしょう。

先に言ったカフェのなかの備品などの空間配置はデザインですが、そのなかで店員らしくふるまうその店員さんのふるまいもデザインであり、客であるわれわれのふるまいもデザインで、その場をつくっています。カフェのなかにあるモノ、いる人みながそれぞれのデザインをもちこんでその場所を成立させているのであり、こうした複数のデザインがからみあってカフェ全体の現実のデザインができている。こうして成立している、ある場所での全体的なデザインをコモネンさんは「デザイン・エコシステム(design eco-system)」と呼んでいます。

この延長で考える限り、カフェの外の社会も無数のデザイン・エコシステムで成り立っており、それらのシステムどうしがかかわり合って、世界は巨大なデザイン・エコシステムとして成立している、ととらえることも出来ます。さすがにここまでいくと話が大きくなり過ぎですが、要するにコモネンさんの呼びかけのポイントは、ふつうに暮らしているわれわれは、法律や規範などの「すでに誰かによって作られたデザイン」によって規定されているようであっても、じつはわれわれ自身は新しいデザインをすでに・つねにしているのだ、だから少しずつではあるけれど、未来の社会をデザインしていくことは可能だ!ということなのです。

 * * *

以上のことは、社会学者や人類学者とっては、社会を理念化してとらえるときによく念頭にあることで、新しいというよりも親しみのある考え方だ。われわれがそのときその場でデザインできるものすべてがdesign spaceならばそれはすなわち〈社会的・以前〉に存在する事物であり、あるデザインをするときに関連し影響する環境を言うのがdesign platformならばそれは社会的に存在する事物・文化・規範(と逸脱)etc.であり、それらによってかたちづくられるデザインとそれを浸し、ズレを含んだ再生産を生み出す〈社会〉がすなわちdesign ecosystemということになる。だからコモネンさんも、デザイン業界の人には通じにくい話だが人類学とか社会学をやってる人には通じやすい、とも言っていた。意地悪に言えば、なにもデザインという言葉を使わなくてもこういう話はできるわけだ。私がそう言うと、コモネンさんは「そうだね、これは私がdesign概念の拡張という手法をたまたま採ったということなんだろうね」と言っていた。また、こうした考えがデザイナーに通じにくいとも思えない。いくらか譲って、アーティストには通じるだろうと思うし、そういう実践的なアートはたくさんある。

design概念の拡張についての説明の第1歩で、コモネンさんはdesignという語には名詞と動詞があって、日本人のdesign概念が狭いのは、日本語の片仮名のデザインという語が名詞の用法の一部に立脚しているからで、designは動詞となってデザインする、創る、という意味になるのだ、という出だしで始めた。これはいい説明の導入だ。国際講演会のスピーチとなれば、こうした異なる言語環境の聴衆を想定したプレゼンが必要だ。

さて。だけどもやっぱりこのdesign概念の拡張の話には不満がある。拡張しすぎれば、design還元論にちかくなってしまう。もともとこれは運動なのだからスローガンでよいのだ、という態度なのかもしれないけど、それではやっぱり物足りない。むろん、degital deviceのなかでのdesign eco-systemは豊饒なようであってdesign spaceもdesign platformも極度にたようではあるが極度にrigidな制限がかかっているのであって、根底には「選択肢のなかの自由、だが選択肢はつねに他からあたえられるという不自由」という問題が潜在する。だからそうした企業の力による拡張されたdesignへの制限を助長する知的所有権には賛成できないし、そうした状況に敏感になりつつそれでもcustomaizeを果敢に続ける強度を持て、というかれの主張には賛成できる。

拡張されたdesign概念やdesign eco-systemという概念がもっとも生きてくるのは、かれが例としてとりあげていた台所(kitchen)やdigital deviceについてだろう。しかしこれらはいずれも自分の私的な・身の回り範囲でのもので、そこから親密圏、地域公共圏へと適用範囲をひろげていくと、どうも具体的に想像しがたく、事例検討が必要だ。質問も出ていたように各自が各自の飼いならしたeco-systemをもっているなら、それらがひとつ上位のeco-systemを形成するさいに、異なるeco-systemどうしのコンフリクトや界面での交渉をどうかんがえるのかという点が重要になるし、そうでないと「地域社会をdesignする」というような応用議題は成立しない。上記の予習ノートでいうカフェの空間内のようなことを詳しく検討してみるのも、ひとつの途なのかもしれない。

Kitchenのように、いくつかの行為を形成するなにかのためにある空間(a dedicated space for various activities)やdigital deviceの話は分かりやすい。自分が働きかけ、materialsの布置と行為をかたちづくるflowsとが構成される自分のeco-systemをつくる。customizeがもっともわかりやすい鍵概念となるが、しかしここでなにがおこなわれているのか、ということを考えるさいに、コモネンさん本人も触れていたようにdomestication概念だとか、ほかの研究者が言っていたようにJames Jerome Gibsonのaffordance概念などを用いた解釈との異同を検討する必要も残された課題としてある。practiceについては、コモネンさんが講演中に紹介していたTheodore R. Schatzkiというハイデガー学者がもっともよくできた理論書を書いているらしい。社会学者は実践(practice)といえばすぐさまPierre Bourdieuを想起するけども、Schatzkiのものも(難しそうだけど)読んでみるといいかもしれない。

ともかくも、目指す方向としてのutopiaの想定を言っているのは、another world is possibleというalternativistのふるまいとしては理解可能、だが社会学者としてはたとえば社会のdesigningについて、あるいは地域に内在するdesign eco-systemを、design platformの記述をとおして徐々に解釈を更新して行く方法がありえるね、と言ってホテル前でお別れ。

2014年10月16日木曜日

このblogについて

このblogは、弘前大学人文学部ほかで私が担当している講義(社会学や人類学)の予習復習、ゼミでの議論の補足などに活用してもらうために作っています。

今後、現在担当している「社会学A」「社会行動論A」「社会学の基礎」「ゼミ」などカテゴリ分けして表示するようにしたいと思います。