2014年10月17日金曜日

拡張されたdesign概念:Kari-Hans Kommonenさん講演

10月14日(火)16:00-18:00に、土手町コミュニティセンターでフィンランドのAalto Universityのメディア学科、Arki research groupのKari-Hans Kommonenさんの講演があった。以下は、ゼミメンバーに送ったその予習のためのノート。

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コモネンさんは、デザイン(design)についての広い考え方を提案し、応用を呼びかけている方です。ふつう、デザインということばは、製品デザインとして想定されます。製品デザインでは「かわいさ」「かっこよさ」のコンセプトだけが目指される場合もありますが、基本的にはその製品の用途に即した「わかりやすい使いやすさ」が欠かせません。座れない椅子は、美術の世界では作品となりえますが、デザインされた製品とはなりえない。

カフェの内装やテーブル、カウンターなど店内備品の配置、椅子の堅さ、流れている音楽の種類とボリューム調整などもデザインです。お客の動線や回転を考えて作られています。そういうデザインがちがうから、家族連れをターゲットにしている店とビジネスマンや若者をターゲットにしている店とでは、雰囲気がちがうのです。このようにわれわれの知っているデザインは、デザイナー(設計者)の意図(intention)があり、その意図に従ってわれわれが製品(あるいはお店のような空間)を使う、というようにできています。

でも、これはある意味「狭い」デザインの考え方だというのです。コモネンさんはもっと「広い」意味でデザインを考えよう、と言います。どういうことか。デザイナーが意図して制作したもの以外にもデザインはある、というのがまずひとつの主張です。たとえば蜘蛛の巣、たとえば森の中の石などにもデザインはある、というのです。石は椅子ではないのに、われわれは石に腰掛けるということがあります。ちょっと哲学的な話ですね。

石や樹木のような自然物は「ある用途のためにある」製品ではないけれど、人類はずっとそれを使ってきました。これもある種のデザインだというわけです。デザイナーではないわれわれも「腰掛ける」という行為によってそのとき石をデザインしているのです。さらにいえば、製品にせよ、われわれはデザイナーの意図を100%理解し反映した使い方をしているとは限りません。意図からはみでるような使い方を、われわれが実践して新たなデザインを生み出していることもあるのです。

われわれは赤ちゃんから大人に成長する過程で、みようみまねを繰り返して「それらしくふるまう」ように成長します。だけど、なぜそうするのかという「意図」や「理由」をいちいち理解していろいろにふるまっていることは、じつはそれほど多くない。そして他人のふるまいを真似るといっても、各自それぞれのまね方があって、もとの行為を100%復元できているかどうかは、わからないのです。その100%復元されたものでない行為を、またほかの誰かが真似たりなぞったりして、われわれの社会や人間関係は動いています。

まとめると、コモネンさんの言うデザインの「広い」考え方は、「人は人や事物との関係を行為によってつなぐ実践(practice)をつねにしている。そして、実践によってその事物やおたがいの行為に少しずつあたらしい用途や意味が加わっていくのなら、これも広い意味でのデザインだ」という主張になるでしょう。

先に言ったカフェのなかの備品などの空間配置はデザインですが、そのなかで店員らしくふるまうその店員さんのふるまいもデザインであり、客であるわれわれのふるまいもデザインで、その場をつくっています。カフェのなかにあるモノ、いる人みながそれぞれのデザインをもちこんでその場所を成立させているのであり、こうした複数のデザインがからみあってカフェ全体の現実のデザインができている。こうして成立している、ある場所での全体的なデザインをコモネンさんは「デザイン・エコシステム(design eco-system)」と呼んでいます。

この延長で考える限り、カフェの外の社会も無数のデザイン・エコシステムで成り立っており、それらのシステムどうしがかかわり合って、世界は巨大なデザイン・エコシステムとして成立している、ととらえることも出来ます。さすがにここまでいくと話が大きくなり過ぎですが、要するにコモネンさんの呼びかけのポイントは、ふつうに暮らしているわれわれは、法律や規範などの「すでに誰かによって作られたデザイン」によって規定されているようであっても、じつはわれわれ自身は新しいデザインをすでに・つねにしているのだ、だから少しずつではあるけれど、未来の社会をデザインしていくことは可能だ!ということなのです。

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以上のことは、社会学者や人類学者とっては、社会を理念化してとらえるときによく念頭にあることで、新しいというよりも親しみのある考え方だ。われわれがそのときその場でデザインできるものすべてがdesign spaceならばそれはすなわち〈社会的・以前〉に存在する事物であり、あるデザインをするときに関連し影響する環境を言うのがdesign platformならばそれは社会的に存在する事物・文化・規範(と逸脱)etc.であり、それらによってかたちづくられるデザインとそれを浸し、ズレを含んだ再生産を生み出す〈社会〉がすなわちdesign ecosystemということになる。だからコモネンさんも、デザイン業界の人には通じにくい話だが人類学とか社会学をやってる人には通じやすい、とも言っていた。意地悪に言えば、なにもデザインという言葉を使わなくてもこういう話はできるわけだ。私がそう言うと、コモネンさんは「そうだね、これは私がdesign概念の拡張という手法をたまたま採ったということなんだろうね」と言っていた。また、こうした考えがデザイナーに通じにくいとも思えない。いくらか譲って、アーティストには通じるだろうと思うし、そういう実践的なアートはたくさんある。

design概念の拡張についての説明の第1歩で、コモネンさんはdesignという語には名詞と動詞があって、日本人のdesign概念が狭いのは、日本語の片仮名のデザインという語が名詞の用法の一部に立脚しているからで、designは動詞となってデザインする、創る、という意味になるのだ、という出だしで始めた。これはいい説明の導入だ。国際講演会のスピーチとなれば、こうした異なる言語環境の聴衆を想定したプレゼンが必要だ。

さて。だけどもやっぱりこのdesign概念の拡張の話には不満がある。拡張しすぎれば、design還元論にちかくなってしまう。もともとこれは運動なのだからスローガンでよいのだ、という態度なのかもしれないけど、それではやっぱり物足りない。むろん、degital deviceのなかでのdesign eco-systemは豊饒なようであってdesign spaceもdesign platformも極度にたようではあるが極度にrigidな制限がかかっているのであって、根底には「選択肢のなかの自由、だが選択肢はつねに他からあたえられるという不自由」という問題が潜在する。だからそうした企業の力による拡張されたdesignへの制限を助長する知的所有権には賛成できないし、そうした状況に敏感になりつつそれでもcustomaizeを果敢に続ける強度を持て、というかれの主張には賛成できる。

拡張されたdesign概念やdesign eco-systemという概念がもっとも生きてくるのは、かれが例としてとりあげていた台所(kitchen)やdigital deviceについてだろう。しかしこれらはいずれも自分の私的な・身の回り範囲でのもので、そこから親密圏、地域公共圏へと適用範囲をひろげていくと、どうも具体的に想像しがたく、事例検討が必要だ。質問も出ていたように各自が各自の飼いならしたeco-systemをもっているなら、それらがひとつ上位のeco-systemを形成するさいに、異なるeco-systemどうしのコンフリクトや界面での交渉をどうかんがえるのかという点が重要になるし、そうでないと「地域社会をdesignする」というような応用議題は成立しない。上記の予習ノートでいうカフェの空間内のようなことを詳しく検討してみるのも、ひとつの途なのかもしれない。

Kitchenのように、いくつかの行為を形成するなにかのためにある空間(a dedicated space for various activities)やdigital deviceの話は分かりやすい。自分が働きかけ、materialsの布置と行為をかたちづくるflowsとが構成される自分のeco-systemをつくる。customizeがもっともわかりやすい鍵概念となるが、しかしここでなにがおこなわれているのか、ということを考えるさいに、コモネンさん本人も触れていたようにdomestication概念だとか、ほかの研究者が言っていたようにJames Jerome Gibsonのaffordance概念などを用いた解釈との異同を検討する必要も残された課題としてある。practiceについては、コモネンさんが講演中に紹介していたTheodore R. Schatzkiというハイデガー学者がもっともよくできた理論書を書いているらしい。社会学者は実践(practice)といえばすぐさまPierre Bourdieuを想起するけども、Schatzkiのものも(難しそうだけど)読んでみるといいかもしれない。

ともかくも、目指す方向としてのutopiaの想定を言っているのは、another world is possibleというalternativistのふるまいとしては理解可能、だが社会学者としてはたとえば社会のdesigningについて、あるいは地域に内在するdesign eco-systemを、design platformの記述をとおして徐々に解釈を更新して行く方法がありえるね、と言ってホテル前でお別れ。