2014年10月28日火曜日

論文の読み方

ある地域について調べて書かれた社会学の論文には、次の3つのタイプ(あるいは3つの要素)があります。

① 量的データがおもな情報となる論述(世の中の多くの報告書、グラフと表が多い)
② 理念(社会学の術語)を駆使して抽象的な論述がなされているもの(理論、概説)
③ 具体的な個々の事例を質的に記載していくもので、①や②との総合が多い(事例研究)

タイプの違いは、これらの3つの要素の割合によります。社会行動論Aでは③を読めるようになることがゴールです。

ほとんどの論文は、次のような構造(全体構成、目次)になっています。

  1. 論述の目的
  2. 調査方法、調査地
  3. 具体的な事例の内容
  4. 事例に対する解釈
  5. 考察や議論、残された課題点

みなさんは、①タイプを読む読み方はすでに身につけています。どの論文にも多かれ少なかれ入っている要素②は、もう少し慣れることが必要です。これからも随時、講義でサポートします。③タイプ(事例研究、case study)は以下を押さえていく要領で読んでいきましょう。

  • 論述の目的はなにか、なにを明らかにすると言っているか(目的を導きだすための理屈を理解する必要があり、要素②がかかわる。やや難)
  • どのような調査方法、調査地か。なにをおもな資料にしているか(これは、みれば分かる)
  • 事例の内容(具体的で細かいので読み疲れることがある。疲れたらいったん飛ばして「解釈」に先回りしてもいい)
  • 図表で表されたデータは必ずよくみて理解する(これはできなきゃダメ)
  • 事例に対する解釈(この解釈は事例を根拠にしているはずなので、解釈を読んでから事例を見返して、その解釈が説得的なものかどうか、本当に事例が根拠となっているといえるかどうか)
  • 考察や議論は、最初に設定されている目的にたいする答えになっているか


2014年10月23日木曜日

統計を眺めよう

昨日の講義はMax Weberをあつかいました。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の導入でかれは、

統計によれば、近代的企業の資本家や企業家、上層熟練労働者、商業教育を受けた労働者ほか高級労働はプロテスタント(新教)の割合が高い(総人口に占めるプロテスタントの割合に比べて高い)。住民間で職業分化や社会層分化が起きているところは同じ傾向がみられる。なぜか。

という疑問から出発しています。つまり、統計を眺めていて発見した事柄から出発しています。これは本のつくり上こうしているだけのことで、じっさいにはその前にいろいろの下調べや観察があったにちがいありませんが、面白い導入です。謎解きの始まりで、わくわくします。

ところで講義でも伝えましたが、ここで注目してほしいのはこの本の原著が書かれた1904-05年の時点ではすでに統計が国家によって整備されていたという事実です。さまざまな人びとの交通がさかんになった近代前期のにぎやかな都市には、SimmelやWeberの暮らしたベルリンに限らず、多くの職業・経歴の人々が生活していました。

つまり人口流動性が高まり、いろいろなプロフィールの人が集まってきた都市こそは、「住民間で職業分化や社会層分化が起きているところ」。〈社会〉や〈秩序〉がなぜ可能なのかを考え、近代化ということについて考える学問である社会学が生まれ、発達したのもそうした近代都市の発達があったからなのです。各地域、各国で統計があれば、比較も可能になる。

統計のなかでは、こうしたさまざまな人々が数量化され、カテゴリ・属性によって分類されて把握されます。『プロ倫』の冒頭にWeberが持ち出しているのは1895年の「職業統計」であり、ここでは少なくとも職業や宗教という属性が指標となって整理・把握されていることがわかります。アフリカの国に行けば、いまでも人口統計の下位区分には「民族集団(ethnic group)」があります。

このような統計は、人びとから個性をいったん捨象して集合(人口)として整理・把握し、社会の実勢をみようとします。これは近代になって生まれた社会の統治技法でもあるのです。(この話は、長くなるのでまた別に。統計の歴史についてのお勉強はこちら

Weberのように、統計を眺めてなにか論点や作業仮説(research question)をみつけてみましょう。大きく分けると、統計には実態調査にもとづくものと、意識調査にもとづくものがあります。前者の代表は国勢調査、後者の代表は世論調査でしょうか。

国勢調査は、日本での人口センサス(Population and Housing Census)の呼び名です。1920年から5年ごとおこなわれていて、西暦1の位が「5」の年に簡易調査、「0」の年には大規模調査を行います。規模の大きさ(日本全域)と、実施の歴史の長さがあって、地域間比較や経年変化をみるには格好の材料です。実施主体の総務省統計局のwebサイトから、内容をみることができます。国勢調査はこちら社会生活基本調査なんてのもあります。

世論調査は、目的や実施主体さまざま、多種類あります。おすすめは、社会学者が中心になって企画しNHK放送文化研究所が実施している日本人の意識調査で、これは16歳以上を対象に「生活目標」「人間関係」「家族」「仕事」「政治」などの項目について質問票を使って調べたもの。1973年から5年ごとに実施、最近のものは2008年に実施されて、『現在日本人の意識構造 [第7版]』(NHKブックス)にまとめられています(調査で使われた質問票も載ってます)。ネタの宝庫。機会があったら、統計を眺めてみましょう。


【参考文献】
マックス・ウェーバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、改訳版1989年(原著は1904~1905に発表)
NHK放送文化研究所編『現在日本人の意識構造 [第7版]』NHKブックス、2010年

2014年10月21日火曜日

なぜ「論点ディスカッション」がうまくいかないか?

今日言ったことをまとめてみました。

  • いつも「~すべきかどうか」という論点提起のしかたをしている →ある事象(社会的出来事や社会的な事実)が「どうであるか」という解釈・分析の妥当性を論点にする方が社会学の議論にしやすい。

  • 論点が、テーマでかすぎ問題を抱えている。そのでかすぎテーマを「~すべきかどうか」で片付けようとしている。 →論点をしぼる。テキストの章のなかに近い小テーマをさがしてみる。1カ所でも、複数カ所でも関連小テーマを見つける。それをもとに考えてみる。

  • 新聞記事を材料にしたものが多い →時事社会ネタを拾うのはとてもいい。具体的トピックなのでいくつかの小テーマがそのなかにみつかるから。だけど、新聞記事だけでは絶対的な情報量は足りないし、いくつかの小テーマが拾えるという意味ではテーマは拡散する。どこかに焦点をしぼって統計資料や別の文献を調べてくる。

  • 全部やってこようとすると作業が大きくなる。きっかけになる資料(新聞記事だけだったとしても)をもとに、テキストをみながら論点を絞る作業に時間を取る。そのほかの資料集め・読み込みは時間切れとなったら「どのような資料が足りないか」などを議論すればよい。

  • テキストの章の関連小テーマについて、分析・解釈枠組みや整理のしかたで使える箇所をみつける。みつけたらそれを利用して、自分でもってきた資料から考えたいことを相手に試作品(仮説、図表なんでも)を作ってみる。それを、どのようにしてより洗練させるかを議論すればよい。

2014年10月17日金曜日

拡張されたdesign概念:Kari-Hans Kommonenさん講演

10月14日(火)16:00-18:00に、土手町コミュニティセンターでフィンランドのAalto Universityのメディア学科、Arki research groupのKari-Hans Kommonenさんの講演があった。以下は、ゼミメンバーに送ったその予習のためのノート。

 * * *

コモネンさんは、デザイン(design)についての広い考え方を提案し、応用を呼びかけている方です。ふつう、デザインということばは、製品デザインとして想定されます。製品デザインでは「かわいさ」「かっこよさ」のコンセプトだけが目指される場合もありますが、基本的にはその製品の用途に即した「わかりやすい使いやすさ」が欠かせません。座れない椅子は、美術の世界では作品となりえますが、デザインされた製品とはなりえない。

カフェの内装やテーブル、カウンターなど店内備品の配置、椅子の堅さ、流れている音楽の種類とボリューム調整などもデザインです。お客の動線や回転を考えて作られています。そういうデザインがちがうから、家族連れをターゲットにしている店とビジネスマンや若者をターゲットにしている店とでは、雰囲気がちがうのです。このようにわれわれの知っているデザインは、デザイナー(設計者)の意図(intention)があり、その意図に従ってわれわれが製品(あるいはお店のような空間)を使う、というようにできています。

でも、これはある意味「狭い」デザインの考え方だというのです。コモネンさんはもっと「広い」意味でデザインを考えよう、と言います。どういうことか。デザイナーが意図して制作したもの以外にもデザインはある、というのがまずひとつの主張です。たとえば蜘蛛の巣、たとえば森の中の石などにもデザインはある、というのです。石は椅子ではないのに、われわれは石に腰掛けるということがあります。ちょっと哲学的な話ですね。

石や樹木のような自然物は「ある用途のためにある」製品ではないけれど、人類はずっとそれを使ってきました。これもある種のデザインだというわけです。デザイナーではないわれわれも「腰掛ける」という行為によってそのとき石をデザインしているのです。さらにいえば、製品にせよ、われわれはデザイナーの意図を100%理解し反映した使い方をしているとは限りません。意図からはみでるような使い方を、われわれが実践して新たなデザインを生み出していることもあるのです。

われわれは赤ちゃんから大人に成長する過程で、みようみまねを繰り返して「それらしくふるまう」ように成長します。だけど、なぜそうするのかという「意図」や「理由」をいちいち理解していろいろにふるまっていることは、じつはそれほど多くない。そして他人のふるまいを真似るといっても、各自それぞれのまね方があって、もとの行為を100%復元できているかどうかは、わからないのです。その100%復元されたものでない行為を、またほかの誰かが真似たりなぞったりして、われわれの社会や人間関係は動いています。

まとめると、コモネンさんの言うデザインの「広い」考え方は、「人は人や事物との関係を行為によってつなぐ実践(practice)をつねにしている。そして、実践によってその事物やおたがいの行為に少しずつあたらしい用途や意味が加わっていくのなら、これも広い意味でのデザインだ」という主張になるでしょう。

先に言ったカフェのなかの備品などの空間配置はデザインですが、そのなかで店員らしくふるまうその店員さんのふるまいもデザインであり、客であるわれわれのふるまいもデザインで、その場をつくっています。カフェのなかにあるモノ、いる人みながそれぞれのデザインをもちこんでその場所を成立させているのであり、こうした複数のデザインがからみあってカフェ全体の現実のデザインができている。こうして成立している、ある場所での全体的なデザインをコモネンさんは「デザイン・エコシステム(design eco-system)」と呼んでいます。

この延長で考える限り、カフェの外の社会も無数のデザイン・エコシステムで成り立っており、それらのシステムどうしがかかわり合って、世界は巨大なデザイン・エコシステムとして成立している、ととらえることも出来ます。さすがにここまでいくと話が大きくなり過ぎですが、要するにコモネンさんの呼びかけのポイントは、ふつうに暮らしているわれわれは、法律や規範などの「すでに誰かによって作られたデザイン」によって規定されているようであっても、じつはわれわれ自身は新しいデザインをすでに・つねにしているのだ、だから少しずつではあるけれど、未来の社会をデザインしていくことは可能だ!ということなのです。

 * * *

以上のことは、社会学者や人類学者とっては、社会を理念化してとらえるときによく念頭にあることで、新しいというよりも親しみのある考え方だ。われわれがそのときその場でデザインできるものすべてがdesign spaceならばそれはすなわち〈社会的・以前〉に存在する事物であり、あるデザインをするときに関連し影響する環境を言うのがdesign platformならばそれは社会的に存在する事物・文化・規範(と逸脱)etc.であり、それらによってかたちづくられるデザインとそれを浸し、ズレを含んだ再生産を生み出す〈社会〉がすなわちdesign ecosystemということになる。だからコモネンさんも、デザイン業界の人には通じにくい話だが人類学とか社会学をやってる人には通じやすい、とも言っていた。意地悪に言えば、なにもデザインという言葉を使わなくてもこういう話はできるわけだ。私がそう言うと、コモネンさんは「そうだね、これは私がdesign概念の拡張という手法をたまたま採ったということなんだろうね」と言っていた。また、こうした考えがデザイナーに通じにくいとも思えない。いくらか譲って、アーティストには通じるだろうと思うし、そういう実践的なアートはたくさんある。

design概念の拡張についての説明の第1歩で、コモネンさんはdesignという語には名詞と動詞があって、日本人のdesign概念が狭いのは、日本語の片仮名のデザインという語が名詞の用法の一部に立脚しているからで、designは動詞となってデザインする、創る、という意味になるのだ、という出だしで始めた。これはいい説明の導入だ。国際講演会のスピーチとなれば、こうした異なる言語環境の聴衆を想定したプレゼンが必要だ。

さて。だけどもやっぱりこのdesign概念の拡張の話には不満がある。拡張しすぎれば、design還元論にちかくなってしまう。もともとこれは運動なのだからスローガンでよいのだ、という態度なのかもしれないけど、それではやっぱり物足りない。むろん、degital deviceのなかでのdesign eco-systemは豊饒なようであってdesign spaceもdesign platformも極度にたようではあるが極度にrigidな制限がかかっているのであって、根底には「選択肢のなかの自由、だが選択肢はつねに他からあたえられるという不自由」という問題が潜在する。だからそうした企業の力による拡張されたdesignへの制限を助長する知的所有権には賛成できないし、そうした状況に敏感になりつつそれでもcustomaizeを果敢に続ける強度を持て、というかれの主張には賛成できる。

拡張されたdesign概念やdesign eco-systemという概念がもっとも生きてくるのは、かれが例としてとりあげていた台所(kitchen)やdigital deviceについてだろう。しかしこれらはいずれも自分の私的な・身の回り範囲でのもので、そこから親密圏、地域公共圏へと適用範囲をひろげていくと、どうも具体的に想像しがたく、事例検討が必要だ。質問も出ていたように各自が各自の飼いならしたeco-systemをもっているなら、それらがひとつ上位のeco-systemを形成するさいに、異なるeco-systemどうしのコンフリクトや界面での交渉をどうかんがえるのかという点が重要になるし、そうでないと「地域社会をdesignする」というような応用議題は成立しない。上記の予習ノートでいうカフェの空間内のようなことを詳しく検討してみるのも、ひとつの途なのかもしれない。

Kitchenのように、いくつかの行為を形成するなにかのためにある空間(a dedicated space for various activities)やdigital deviceの話は分かりやすい。自分が働きかけ、materialsの布置と行為をかたちづくるflowsとが構成される自分のeco-systemをつくる。customizeがもっともわかりやすい鍵概念となるが、しかしここでなにがおこなわれているのか、ということを考えるさいに、コモネンさん本人も触れていたようにdomestication概念だとか、ほかの研究者が言っていたようにJames Jerome Gibsonのaffordance概念などを用いた解釈との異同を検討する必要も残された課題としてある。practiceについては、コモネンさんが講演中に紹介していたTheodore R. Schatzkiというハイデガー学者がもっともよくできた理論書を書いているらしい。社会学者は実践(practice)といえばすぐさまPierre Bourdieuを想起するけども、Schatzkiのものも(難しそうだけど)読んでみるといいかもしれない。

ともかくも、目指す方向としてのutopiaの想定を言っているのは、another world is possibleというalternativistのふるまいとしては理解可能、だが社会学者としてはたとえば社会のdesigningについて、あるいは地域に内在するdesign eco-systemを、design platformの記述をとおして徐々に解釈を更新して行く方法がありえるね、と言ってホテル前でお別れ。

2014年10月16日木曜日

このblogについて

このblogは、弘前大学人文学部ほかで私が担当している講義(社会学や人類学)の予習復習、ゼミでの議論の補足などに活用してもらうために作っています。

今後、現在担当している「社会学A」「社会行動論A」「社会学の基礎」「ゼミ」などカテゴリ分けして表示するようにしたいと思います。