しらかば班をスタートするにあたり私は、(1)ひとまず教材としてハンセン病概史の教科書的な年表を用意し、これをわれわれの視点で解説することや、年表に加筆すること、(2)短歌作品をとおして入所者の主観越しに療養所内の社会・人生に迫ること、療養所の内と外との関係に迫ること、のふたつを提案しています。
前回の実習では、1950年代はじめ(1951)に患者自治会の全国連合である「全国らい患者協議会(全患協)」が結成されるなど、1950年代は入所者のあいだでの運動の盛り上がりが見られた時期であり、ハンセン病と療養所とにとってひとつの転換期、そして最盛期だったのではないかということを伝えました。少なくとも、われわれの使った教科書的な年表には1953年の「らい予防法(新法)」制定については、隔離政策の継続という面だけ記載され、人権を無視した所内の処遇の見直しの面は伝えていません。それがどれほどの「見直し」であったのかは私はまだ知らず、調べてみる必要がありますけども。
つまり教材年表のなかでは、20世紀初頭の旧法から世紀末の廃止まで一貫した隔離政策の継続が強調されています。これは事実にはちがいありませんし、闘いの歴史をまとめる方針で編まれた年表としては当然です。1953年の新法による隔離政策の継続はかれらにとって「それまでの運動の敗北」だったのでしょうから。他方、所内社会の生きられた歴史に注目するわれわれは、たとえば1950年台につくられた短歌を解釈するときには、この年代の所内運動の盛り上がりや新法制定後の所内生活の諸々の変化などにも注意を向けるべきだろうと思います。だから、私がいま個人的に知りたいなーと思うことのひとつは、この1950年代の療養所内の生活変化の詳しい状況です。
さて、このことに関連して、ここではハンセン病に関する年表だけからは見出せない現代史の背景をもう少し見ておきましょう。当時は現在とちがい、療養所内の入所者(患者)数と医療スタッフの数とでいえば、圧倒的に前者が大きく、入所者自治会が声を大きく主張すれば医療スタッフも厚生省(現厚生労働省)も無視するわけにはいかないという力関係を作っていけたのだと思います。もちろん1950年代以降のMLT国際らい会議、ローマ会議、WHOなど国際社会の動きの影響も関係しているでしょうし、運動を支援した外部の勢力もあったことが考えられます。また国内では、1951年にサンフランシスコ講和条約が調印され、翌年発効してからは労働争議が世の中全体にその波紋を広げていました。1955年には与党によるいわゆる保守合同があり、民間6単産(炭労・私鉄・電産など)労働者によって春闘が開始されます。
一般に、日本の高度経済成長は敗戦後10年の1955年から、第一次石油危機の1973年までとされています。これが始まった背景にはアメリカの発注を受けて朝鮮戦争(1950-)のための軍用品を生産・輸出したことによる特需景気があります。1956年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と謳いました。高度成長のなかで、それまでの農村-都市人口移動による都市化には拍車がかかり、給与所得者の所得上昇によるテレビ(モノクロ)・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が「三種の神器」として各家庭の憧れの的となり、日本社会は「大衆消費社会」に移行します。NHKと日本テレビが日本国内で初めて放映を開始したのが1953年です。
ちなみに、TV放映が開始するまでニュースは通常ラジオ、新聞、そしてニュース映画という媒体でアクセスできるものでした。1940年代までのニュース映画は映画館に行って観るものでした。ニュース映画は新聞社の制作でしたが、戦時中には政府の検閲がかけられ戦争の宣伝に使われました。全国の療養所にはふるーい映写機があり(青森市の療養所の資料館にも展示されています)、往時より映画鑑賞の催しがあったようですが、それが戦中からのものであったのかについては私はまだ知りません。
というわけで、こうした国内の時代の雰囲気は、隔離された小社会である1950年代の療養所内の人びとにも、新聞・ラジオ、映画、そしてテレビを通じて知られていたはずです(この点、詳細は史料検証すべきですね)。前述の労働争議の盛り上がりも、TVニューズ番組の映像を通して視聴されていたはずですね。国内メディアによって報じられたこうした全体社会の状況は、当時の入所者の方がたにはどう受け取られていたのか。「らい予防法(新法)」制定についても、所内の人々はメディアを通してと、自治会を通して、2つの経路から聞いたのではないでしょうか。こうしたことを、みていければ興味深いことだなと考えています。
1950年代の歴史的な映像は、Youtubeなどの動画サイトでみつけることができます。試しにいろいろ検索してご覧なさい。また、参考書『離された園』は、まさに1950年代の全国の療養所のすがたを捉えていますので、上記のことを念頭に写真をみていきましょう。
次回も扱う坂田論文[2009]が対象としているのは、盛り上がりの1950年代を経て、新法制定後20年経過したあとハンセン病の「終わり」を迎えた時期です。この視点も教科書の年表には欠けているわけですが、それはまた別の記事で。
参考文献
岩波書店編集部・岩波映画製作所 編[1956]『離された園』、岩波書店(岩波写真文庫188)
坂田勝彦[2009]「「終わり」と向き合うハンセン病者:過去の想起と共同性」、『ソシオロゴス』33号、pp.30-45.
南日本放送ハンセン病取材班 編[2002]『ハンセン病問題は終わっていない』、岩波書店(岩波ブックレット567)
安場保吉・猪木武徳 編[1989]『高度成長(日本経済史 8)』岩波書店
前回の実習では、1950年代はじめ(1951)に患者自治会の全国連合である「全国らい患者協議会(全患協)」が結成されるなど、1950年代は入所者のあいだでの運動の盛り上がりが見られた時期であり、ハンセン病と療養所とにとってひとつの転換期、そして最盛期だったのではないかということを伝えました。少なくとも、われわれの使った教科書的な年表には1953年の「らい予防法(新法)」制定については、隔離政策の継続という面だけ記載され、人権を無視した所内の処遇の見直しの面は伝えていません。それがどれほどの「見直し」であったのかは私はまだ知らず、調べてみる必要がありますけども。
つまり教材年表のなかでは、20世紀初頭の旧法から世紀末の廃止まで一貫した隔離政策の継続が強調されています。これは事実にはちがいありませんし、闘いの歴史をまとめる方針で編まれた年表としては当然です。1953年の新法による隔離政策の継続はかれらにとって「それまでの運動の敗北」だったのでしょうから。他方、所内社会の生きられた歴史に注目するわれわれは、たとえば1950年台につくられた短歌を解釈するときには、この年代の所内運動の盛り上がりや新法制定後の所内生活の諸々の変化などにも注意を向けるべきだろうと思います。だから、私がいま個人的に知りたいなーと思うことのひとつは、この1950年代の療養所内の生活変化の詳しい状況です。
さて、このことに関連して、ここではハンセン病に関する年表だけからは見出せない現代史の背景をもう少し見ておきましょう。当時は現在とちがい、療養所内の入所者(患者)数と医療スタッフの数とでいえば、圧倒的に前者が大きく、入所者自治会が声を大きく主張すれば医療スタッフも厚生省(現厚生労働省)も無視するわけにはいかないという力関係を作っていけたのだと思います。もちろん1950年代以降のMLT国際らい会議、ローマ会議、WHOなど国際社会の動きの影響も関係しているでしょうし、運動を支援した外部の勢力もあったことが考えられます。また国内では、1951年にサンフランシスコ講和条約が調印され、翌年発効してからは労働争議が世の中全体にその波紋を広げていました。1955年には与党によるいわゆる保守合同があり、民間6単産(炭労・私鉄・電産など)労働者によって春闘が開始されます。
一般に、日本の高度経済成長は敗戦後10年の1955年から、第一次石油危機の1973年までとされています。これが始まった背景にはアメリカの発注を受けて朝鮮戦争(1950-)のための軍用品を生産・輸出したことによる特需景気があります。1956年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と謳いました。高度成長のなかで、それまでの農村-都市人口移動による都市化には拍車がかかり、給与所得者の所得上昇によるテレビ(モノクロ)・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が「三種の神器」として各家庭の憧れの的となり、日本社会は「大衆消費社会」に移行します。NHKと日本テレビが日本国内で初めて放映を開始したのが1953年です。
ちなみに、TV放映が開始するまでニュースは通常ラジオ、新聞、そしてニュース映画という媒体でアクセスできるものでした。1940年代までのニュース映画は映画館に行って観るものでした。ニュース映画は新聞社の制作でしたが、戦時中には政府の検閲がかけられ戦争の宣伝に使われました。全国の療養所にはふるーい映写機があり(青森市の療養所の資料館にも展示されています)、往時より映画鑑賞の催しがあったようですが、それが戦中からのものであったのかについては私はまだ知りません。
というわけで、こうした国内の時代の雰囲気は、隔離された小社会である1950年代の療養所内の人びとにも、新聞・ラジオ、映画、そしてテレビを通じて知られていたはずです(この点、詳細は史料検証すべきですね)。前述の労働争議の盛り上がりも、TVニューズ番組の映像を通して視聴されていたはずですね。国内メディアによって報じられたこうした全体社会の状況は、当時の入所者の方がたにはどう受け取られていたのか。「らい予防法(新法)」制定についても、所内の人々はメディアを通してと、自治会を通して、2つの経路から聞いたのではないでしょうか。こうしたことを、みていければ興味深いことだなと考えています。
1950年代の歴史的な映像は、Youtubeなどの動画サイトでみつけることができます。試しにいろいろ検索してご覧なさい。また、参考書『離された園』は、まさに1950年代の全国の療養所のすがたを捉えていますので、上記のことを念頭に写真をみていきましょう。
次回も扱う坂田論文[2009]が対象としているのは、盛り上がりの1950年代を経て、新法制定後20年経過したあとハンセン病の「終わり」を迎えた時期です。この視点も教科書の年表には欠けているわけですが、それはまた別の記事で。
参考文献
岩波書店編集部・岩波映画製作所 編[1956]『離された園』、岩波書店(岩波写真文庫188)
坂田勝彦[2009]「「終わり」と向き合うハンセン病者:過去の想起と共同性」、『ソシオロゴス』33号、pp.30-45.
南日本放送ハンセン病取材班 編[2002]『ハンセン病問題は終わっていない』、岩波書店(岩波ブックレット567)
安場保吉・猪木武徳 編[1989]『高度成長(日本経済史 8)』岩波書店