2020年6月10日水曜日

短歌から社会を(その2;1960s-70s)

前に投稿した「その1」では1950年代が国立療養所にとって、そして国内社会にとってどのような時代だったのかについて述べました。国内社会は敗戦の混乱のなか新憲法が発布され(1946)戦後民主社会が息吹き、高度経済成長期へと入っていく時期にあたります。そのなかで、療養所という隔離社会内部でも各所の患者自治会の活動が活発化し、全患協が結成され「運動」が盛り上がりをみせるゴールデンエイジを迎えます。しかし他方、隔離政策を規定した「らい予防法」が旧法から新法に改定されたとき(1953)、その隔離政策規定について変更はなく運動はいったん挫折・敗北を味わったのでした。

岩波写真文庫『離された園』には、まさに1950年代央の療養所内のようすを伝える写真が多数収録されています。療養所のなかの社会も、外部社会との情報交信がテレビという視覚的メディアの登場によっていっそう高まったことが考えられます。同書のなかには、集会所の台の上に載せられたモノクロ・テレビの姿を数葉の写真のなかにみつけることができます。「予防法騒動」の字句もみつけることもできます。

さてではその後、療養所のなかの生活はどのようだったのでしょう。今回は「その1」で私の疑問として挙げておいた、1950年代以降の療養所内社会の変化に注意してまとめてみたいと思います。今週読もうとしている有薗論文[2008]論文は1960-70年代、先週読んだ坂田論文[2009]は1970-80年代の療養所をあつかっています。

有薗論文(3-1)によれば、全患協は1953年より施設運営のための事実上の強制労働に近い「患者作業」への反対運動を展開していました。かれらはストライキなどの戦術によって抵抗し、所内生活の改善を要求する一方で、対外的に関連諸機関への陳情もおこなったのでした。その結果、1960年代半ばになって厚生省が路線を変更し、療養所に職員が補充されることとなりました。施設運営に関わる諸々の作業も、多く新規雇用のプロパー職員によって担われることになったのです。また、1959年制定の国民年金法によって、翌1960年から療養所においても1級障がい者に障害福祉年金が支給されるようになりました。

ところで「らい予防法」が新法になった(1953)ことによる変化はゼロだったのか。かならずしもそうではありません。例えば、新法は施設長の懲戒検束権を廃止しました。これによって司法手続きを経ることなく所内決定で入所者の監禁・減食などの懲戒処分がくだされることは原則的にできなくなったのでした。しかし、やはりこの時期の療養所内の生活・入所者待遇をめぐる変化は「予防法の改定」を中心に多くを語ることには無理があり、全患協など運動全体のうねりのなかで理解すべきなのではないかな、というのが現時点での私の考えです。

有薗論文は、このような状況のなかで所内社会に格差が生じていたことを指摘します。つまり、年金を支給される者/されない者。そして、強制労働が減じたことによって所内生活にも多少の余裕ができ、軽症者や体力のある若い入所者は、高度成長真っ只中の「社会」の建設業に出稼ぎに通ったのでした。そうすると、所内の所得格差が生じるわけです。

『離された園』には園内作業に報酬が出るという記載があります。そこには「富の不均衡によって共同生活が乱れぬよう特殊技能にも高賃金を払わないのが原則」とあります。安く働いてもらう方便のようにみえなくもないですが、すでにここには所内に富の不均衡を気にせざるを得ない状況があったことがうかがえます。もっとも、所内の賃金を調整したところで、同書に掲載された写真の時期から10年も経たないうちに、1960年代になると有薗論文に書かれているように「外の社会」の建設業者からのお迎えのバスが療養所に来ていたそうですから、出稼ぎで稼ぐ人は稼いでいたので格差はいやがおうでも見えてきたのだと言えるでしょう。

そこで有薗論文が注目したのが、外に出稼ぎにいけない入所者たちを多く含んだ、所内の仲間集団による酒屋・賭博・ビニルハウスの製作と販売など、活発でときにやや破天荒な「経済活動」の展開でした。1970年代には高度経済成長も収束。その時代になるとそれまで出稼ぎに行っていた層もこうした活動に参加するようになります。有薗論文によると、一銭の稼ぎにもならないサークル誌などより、こうした稼ぐ活動はよほど活発だったようなのですが、これまでは積極的に注目されず(あるいは非公然活動としてなかば秘話とされ)、記録されてこなかったのです。

1970年代もすすんでくれば、療養所の新規入所者数も減り、退所する者は退所し、重症者や高齢者が所内に残り、療養所内人口構成の減少と高齢化がすすみました。社会的にも「予防法騒動」から20年の時間が経過して社会問題としての関心も薄れていった、坂田論文がハンセン病の〈終わり〉の時代と呼んだ時代になるわけです。

その後ーー現在にいたるまでに、ハンセン病の歴史にとって大きな出来事としては1990年代のなかば、1996年にようやく「らい予防法」廃止、ついで国賠訴訟が起こり、2001年に厚生労働省が原告団とハンセン病恒久対策について合意、2002年始めに熊本地裁で初の国賠訴訟和解が成立が挙げられます。われわれが最初に参考にした年表は、この時点で終わっています。

それからさらに20年が経とうとしている現在は、新規入所者数はほぼないまでに減少し、所内人口は超高齢化の時代を迎えています。国立療養所は一定の歴史的役割を終えつつあると言えるかもしれません。だからこそ、ではその歴史をどのような歴史としてふりかえるのかということは、その視点・視座によって異なる歴史化が可能ななかで、議論されるべきじゃないかと思います。

文献
有薗真代[2008]「国立ハンセン病療養所における仲間集団の諸実践」、『社会学評論』59巻2号、pp.331-348.
岩波書店編集部・岩波映画製作所 編[1956]『離された園』、岩波書店(岩波写真文庫188)
坂田勝彦[2009]「「終わり」と向き合うハンセン病者:過去の想起と共同性」、『ソシオロゴス』33号、pp.30-45.


2020年6月5日金曜日

論文をしっかり読む読みかた

実習の報告書(年末から年度末にかけて)、そして卒論(うちのゼミでは3年の後期から)と、大学でみなさんが課される「調査をもとにした作文」である論文を書くとき、かならず関連研究(先行研究)をレビューしなさい、という指導を受けます。論文を読むことは卒業までに避けて通ることのできないポイントです。ここでは、「ふつうの読書」とちがう「レビューのために論文を読む」ことについて説明してみます。

ふつうの読書の目的はみなさんがめいめいに決めればよろしい。レビューのために論文を読む目的はただひとつ。自分の研究の意味を、まず自分で確認し理解すること、これです。同じテーマについてほかの人が過去にやった研究内容をみて、自分のやることの意味を発見し、目的を絞りましょう。論文はあたらしい議論をつくるために書くんです。

しかし、人の書いた論文を読むのは慣れないと面倒なことです。小難しい論文が多い。理由のひとつは、人文社会科学系の論文の議論は必然的に抽象的な概念を使ったものになってしまうこと。もうひとつは、著者のなんとなくの癖や背伸びで小難しい表現を選んで書いてしまっていること。私は後者には陥らないようにしたいと思っています。皆さんもいま人のものを読むときはイラついていても、卒論を書くときは必要以上に小難しく表現することがよくあって、本人説明できるのかよ、と読んだ私が思ってしまうパターン、あるので気をつけて。

さて、前置きが長かったですが、論文を読むときに念頭に置かねばならないのは、

  • 著者に寄り添って読むこと(内在的読み)
  • 著者を突き放して読むこと(外在的読み)

これらふたつで、どちらともしなければ絶っ対にダメです。

自分と同じテーマの先行研究の論文を読もうとしている、という想定です。論文の著者と自分とが、テーマにたいするアプローチ、視点(目の付け所)、研究目的(明らかにしたい内容)などについてまったく同じということはまずありません。論文タイトルを見たら一見同じようにみえた論文も、読んでいくとちがいがみえてくることがほとんどです。かんたんに自分と「同じ」や「ちがう」を決めず「どの点が同じ」「どの点でちがう」という整理をすることが重要かと。

著者に寄り添って読むこと(内在的読み)。テーマに対する著者の視点や著者の設定した研究目的を前提にして、著者の意図にしたがってまずは内容を読解します。著者は自分の着目点、研究目的についてどのように意味があると考えているのか。なぜその調査方法、調査対象を選んだのか。歴史的時間軸が入った研究なら、なぜその時期を選んだのか。なぜそのデータあるいは事例を論文でとりあげているのか。データや事例の解釈はどうなっていて、それが議論や考察とどう関連づけられているか。

著者を突き放して読むこと(外在的読み)。テーマに対する著者の視点や著者の設定した研究目的を前提にして、自分の考えているテーマへのアプローチ、視点・視座、そのテーマについてわかりたいこと(研究目的の原型)などなど、自分の立ち位置との差異を意識しながら検討していく。著者の目的の設定には無理がないか。その目的がどこまで達成されているか(議論できているのか)。じゅうぶんな議論の根拠(データ)が示されているか。そもそも調査はじゅうぶんか、などに注意して読みます。じつはこうした、同じテーマの他人の論文の検討作業を通して、テーマに対する自分の視点・視座や研究目的が意識化され、絞られていくものなのです。

この数回分の実習でやろうとしていることは、著者に寄り添って読むこと(内在的読み)。前回、ちょっと混乱があったのだとすると、みなさんがすすめようとしている「内在的読み」に、われわれ教員の側が「外在的読み」を被せてコメントしていった(要するに、著者の叙述について批判していった)ためだと思います(反省)。教員はプロの研究者でたくさん論文を読んできましたから、内在的読み・外在的読みを同時並行してすすめていても、頭のどこかで整理できています。が、慣れていないみなさんは混乱するでしょう。しかし、これ以降は内在的読み・外在的読みということを踏まえて、どちらの眼もしっかりもって読んでいきましょう。

いまの時点でみなさんは、論文内容の難しさにひっかかっているのだと思います。だから、最初は同時並行ではなくまず内在的読みをして、それから外在的、という手順で考えましょう。いま読もうとしている論文[有薗 2008]を例にとってみます。レジュメにも記した通り、慣れないうちは以下の確認をしていくことから始めましょう。
☝「内在的読み」のための2段階
1)全体について
テーマの意味、視点と目的の設定の確認、要旨とkey wordsから全体の流れを想定
2)部分について
・不明な用語 … ①マークを入れて、②意味を考えてみる、調べてみる
・わかりにくい箇所 … ①マークを入れる、②意味を考えてみる
・個々の事例 … ①扱われている出来事のなりゆきをつかむ、②それを著者がどのように解釈しているかをつかむ
これらはノートにメモをとりながら、あるいは印刷した論文に書き込みをしながら、という具体的な手作業にしたほうが頭に入ります。

2)の「個々のデータ・事例」を除き、1)2)のすべては、論文のタイトルと要旨、そして論文の目的や方法が書かれたパート(第1-2章)について重点的に作業をすすめればいいでしょう。「個々の事例」については、いわゆる調査データを使った本論(第3-4章とか)です。さいごの章(5章)は、議論と考察なのできっと抽象的な難易度の高い文章が出てきますが、目的や方法のパートをクリアしていれば対応できるでしょう。

論文は、構成を押さえ、意味のある議論を作れているかどうかという全体をみます。これがいちばん大事。これの決め手は、目的の設定、その目的を、どのようなデータ(量的・質的;事例含む)を使って議論・考察し達成しようとしているかを読むことです。それをまず1)をすることによっておさえます。ところが1)の時点ですでにわからない語や文が出てくるでしょう。そこで2)です。

2)は、自分が知らないだけで辞書を調べれば5秒でわかるような言葉は、調べてください。ただし、初見だが字義と前後の文脈から意味が推量できるものはいちいち調べる必要はありません。そうすると、わからない語は減っていきます。問題は、辞書にない語やわからない文・フレーズが残ることです。これについては、マークを入れ、だいたいの意味を考えておきましょう。イザとなれば教員に聞けばよろしい。教員に聞いても、前回のように、辞書を引いたような答えを得ることができない場合がけっこうありますが、そのことを確認するのも意味のあることです。その場合には、それを疑問として持っておいて、論文を読み進めながら著者の用語法を解釈してゆくしかありません。

扱った論文[有薗 2008]での具体例で言います。要旨をチェックした時点で、「入所者が営んできた諸実践の生成と展開」「構造的制約の多い状況のなかで生を豊穣化しようとする」という2つのフレーズが「よくわからないもの」として残りました。わからないものは、なんとなく・とにかくわからないものとして置いておくよりも、どこが・なぜわからないのかを、できればつきとめておきましょう。前回、だれかが指摘してくれたように、前者の場合は「実践」という語の意味がわからないことが、このフレーズがわからない原因なのです。後者なら「構造的制約」でしょう。言葉そのものとしては、高校生までで「実践」も「構造」も、もしかしたら「構造的制約」も、どこかでみたことがあるかもしれません。しかし、各フレーズの意味は論文を読むまでよくわかりません。

要旨に書かれてあるということは、これら「実践の生成と展開」も「構造的制約」も、この論文にとって重要なことのはずです。なので「いったい、著者がこの言葉で意味しようとしていたことはなんなのか」という疑問をもちながら読み進める。じつは、疑問や予測をもちながら読むことは、論文を「内在的に」読むときにも必須の態度なのです。疑問や予測をもちながら読むためには、重要な疑問や予測を絞っていかねばなりません。上記の1)2)はそのための作業だとも言えます。また、疑問や予測をもちながら読み進めるということは「著者に寄り添って」内在的読みをすすめるために必要であると同時に、テーマに対する自分の視点や考え方への気づき(自覚化)を促します。これが自覚できて初めて外在的な読みが可能になることは言うまでもありません。

私がこの記事の冒頭で書いたレビューのために論文を読む目的「自分の研究の意味を、まず自分で確認し理解すること」とは、このことでした。

文献
有薗真代[2008]「国立ハンセン病療養所における仲間集団の諸実践」、『社会学評論』59巻2号、pp.331-348.

2020年5月30日土曜日

短歌から社会を(その1;1950s)

しらかば班をスタートするにあたり私は、(1)ひとまず教材としてハンセン病概史の教科書的な年表を用意し、これをわれわれの視点で解説することや、年表に加筆すること、(2)短歌作品をとおして入所者の主観越しに療養所内の社会・人生に迫ること、療養所の内と外との関係に迫ること、のふたつを提案しています。

前回の実習では、1950年代はじめ(1951)に患者自治会の全国連合である「全国らい患者協議会(全患協)」が結成されるなど、1950年代は入所者のあいだでの運動の盛り上がりが見られた時期であり、ハンセン病と療養所とにとってひとつの転換期、そして最盛期だったのではないかということを伝えました。少なくとも、われわれの使った教科書的な年表には1953年の「らい予防法(新法)」制定については、隔離政策の継続という面だけ記載され、人権を無視した所内の処遇の見直しの面は伝えていません。それがどれほどの「見直し」であったのかは私はまだ知らず、調べてみる必要がありますけども。

つまり教材年表のなかでは、20世紀初頭の旧法から世紀末の廃止まで一貫した隔離政策の継続が強調されています。これは事実にはちがいありませんし、闘いの歴史をまとめる方針で編まれた年表としては当然です。1953年の新法による隔離政策の継続はかれらにとって「それまでの運動の敗北」だったのでしょうから。他方、所内社会の生きられた歴史に注目するわれわれは、たとえば1950年台につくられた短歌を解釈するときには、この年代の所内運動の盛り上がりや新法制定後の所内生活の諸々の変化などにも注意を向けるべきだろうと思います。だから、私がいま個人的に知りたいなーと思うことのひとつは、この1950年代の療養所内の生活変化の詳しい状況です。

さて、このことに関連して、ここではハンセン病に関する年表だけからは見出せない現代史の背景をもう少し見ておきましょう。当時は現在とちがい、療養所内の入所者(患者)数と医療スタッフの数とでいえば、圧倒的に前者が大きく、入所者自治会が声を大きく主張すれば医療スタッフも厚生省(現厚生労働省)も無視するわけにはいかないという力関係を作っていけたのだと思います。もちろん1950年代以降のMLT国際らい会議、ローマ会議、WHOなど国際社会の動きの影響も関係しているでしょうし、運動を支援した外部の勢力もあったことが考えられます。また国内では、1951年にサンフランシスコ講和条約が調印され、翌年発効してからは労働争議が世の中全体にその波紋を広げていました。1955年には与党によるいわゆる保守合同があり、民間6単産(炭労・私鉄・電産など)労働者によって春闘が開始されます。

一般に、日本の高度経済成長は敗戦後10年の1955年から、第一次石油危機の1973年までとされています。これが始まった背景にはアメリカの発注を受けて朝鮮戦争(1950-)のための軍用品を生産・輸出したことによる特需景気があります。1956年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と謳いました。高度成長のなかで、それまでの農村-都市人口移動による都市化には拍車がかかり、給与所得者の所得上昇によるテレビ(モノクロ)・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が「三種の神器」として各家庭の憧れの的となり、日本社会は「大衆消費社会」に移行します。NHKと日本テレビが日本国内で初めて放映を開始したのが1953年です。

ちなみに、TV放映が開始するまでニュースは通常ラジオ、新聞、そしてニュース映画という媒体でアクセスできるものでした。1940年代までのニュース映画は映画館に行って観るものでした。ニュース映画は新聞社の制作でしたが、戦時中には政府の検閲がかけられ戦争の宣伝に使われました。全国の療養所にはふるーい映写機があり(青森市の療養所の資料館にも展示されています)、往時より映画鑑賞の催しがあったようですが、それが戦中からのものであったのかについては私はまだ知りません。

というわけで、こうした国内の時代の雰囲気は、隔離された小社会である1950年代の療養所内の人びとにも、新聞・ラジオ、映画、そしてテレビを通じて知られていたはずです(この点、詳細は史料検証すべきですね)。前述の労働争議の盛り上がりも、TVニューズ番組の映像を通して視聴されていたはずですね。国内メディアによって報じられたこうした全体社会の状況は、当時の入所者の方がたにはどう受け取られていたのか。「らい予防法(新法)」制定についても、所内の人々はメディアを通してと、自治会を通して、2つの経路から聞いたのではないでしょうか。こうしたことを、みていければ興味深いことだなと考えています。

1950年代の歴史的な映像は、Youtubeなどの動画サイトでみつけることができます。試しにいろいろ検索してご覧なさい。また、参考書『離された園』は、まさに1950年代の全国の療養所のすがたを捉えていますので、上記のことを念頭に写真をみていきましょう。

次回も扱う坂田論文[2009]が対象としているのは、盛り上がりの1950年代を経て、新法制定後20年経過したあとハンセン病の「終わり」を迎えた時期です。この視点も教科書の年表には欠けているわけですが、それはまた別の記事で。


参考文献
岩波書店編集部・岩波映画製作所 編[1956]『離された園』、岩波書店(岩波写真文庫188)
坂田勝彦[2009]「「終わり」と向き合うハンセン病者:過去の想起と共同性」、『ソシオロゴス』33号、pp.30-45.
南日本放送ハンセン病取材班 編[2002]『ハンセン病問題は終わっていない』、岩波書店(岩波ブックレット567)
安場保吉・猪木武徳 編[1989]『高度成長(日本経済史 8)』岩波書店

2020年4月16日木曜日

テーマ着想の経緯:自分の関心を掘り下げる

先日の課題では、(1)研究テーマ解説 と(2)関連文献の紹介 とをまとめてもらいました。卒論の基礎になる部分の下書き、その第一歩といったところです。これから2ヶ月程度でこの下書きを深め、広げていきます。

教師から押し付けられたレポートのテーマとちがって、卒論のテーマは、自分なりにこだわった説明と、専門的な説明ができなければダメです。およそ1年半かけて作り上げる卒論のような長距離走は、ほんとうに関心が持てるテーマでなければ難しいし、勉強して専門的な知見を盛り込まなければ卒論としては認められないからです。

そこで今回は、前回の課題を土台にして、自分の関心を掘り下げていく作業をすすめてもらいます。これを仕上げてから、第1回のゼミに入ります。やってもらう作業は以下のふたつです。

(A)テーマ着想の経緯を説明。なぜそのテーマが興味深いのかを、実際のエピソード・事例や、実際にあったことでなくても創作のエピソードや事例で説明する。(1,000〜1,200字)
(B)テーマについての自分の立ち位置を説明。紹介した文献は、同じテーマについて研究されている。それらは自分の研究となにがちがうのか。これを説明する。(1,000〜1,200字)

このふたつを説明しないと、人はあなたの研究の話に興味をもってくれません。そして(こちらのほうが重要なのですが)このふたつの作業を通過しないと、自分でもなにをやりたいかをあまり理解していないまま、長期戦に突入することになるのでツラくなり、続きません。

逆に、このふたつの作業をやっておくと、まず、自分の関心が絞れてきます。最初に設定するテーマはたいてい「大きすぎて卒論では手に負えない」という問題を抱えています。たとえば「これからの環境問題について」とか「青森県の地域活性化について」とか。それらの大テーマのからさらに一段階や二段階、絞り込んでいかなければ卒論にとって適正な大きさのテーマになりません。

(A)は、先日の(1)研究テーマ解説をふまえて、そこで解説されたテーマは、じっさいの日常のなかではどのような社会現象としてあるのかを説明します。他人に説明するとき、抽象的なコンセプトはまとめて把握したり、いわゆる掴みとしては有効ですが、ていねいに説明するときには具体例を挙げることが有効です。具体例を挙げ、なぜそれが興味深い現象なのかを説明します。

(B)は、先日の(2)関連文献の紹介をふまえて、自分の関心あるテーマにそれぞれの文献がどのような立場からアプローチしているのか、それは自分の関心とどのように違っているのか(まったく同じ、ならあなたの卒論は必要ないかもしれない)、なぜその文献が重要だと考えるのか、などを説明します。

これらは、前回の文書ファイルに上書きするのではなく、別のファイルに改めて作文して下さい。そして、作文したあとに、前回のものから研究題目の変更の必要性を感じたら、題目は変更して下さい。