前に投稿した「その1」では1950年代が国立療養所にとって、そして国内社会にとってどのような時代だったのかについて述べました。国内社会は敗戦の混乱のなか新憲法が発布され(1946)戦後民主社会が息吹き、高度経済成長期へと入っていく時期にあたります。そのなかで、療養所という隔離社会内部でも各所の患者自治会の活動が活発化し、全患協が結成され「運動」が盛り上がりをみせるゴールデンエイジを迎えます。しかし他方、隔離政策を規定した「らい予防法」が旧法から新法に改定されたとき(1953)、その隔離政策規定について変更はなく運動はいったん挫折・敗北を味わったのでした。
岩波写真文庫『離された園』には、まさに1950年代央の療養所内のようすを伝える写真が多数収録されています。療養所のなかの社会も、外部社会との情報交信がテレビという視覚的メディアの登場によっていっそう高まったことが考えられます。同書のなかには、集会所の台の上に載せられたモノクロ・テレビの姿を数葉の写真のなかにみつけることができます。「予防法騒動」の字句もみつけることもできます。
さてではその後、療養所のなかの生活はどのようだったのでしょう。今回は「その1」で私の疑問として挙げておいた、1950年代以降の療養所内社会の変化に注意してまとめてみたいと思います。今週読もうとしている有薗論文[2008]論文は1960-70年代、先週読んだ坂田論文[2009]は1970-80年代の療養所をあつかっています。
有薗論文(3-1)によれば、全患協は1953年より施設運営のための事実上の強制労働に近い「患者作業」への反対運動を展開していました。かれらはストライキなどの戦術によって抵抗し、所内生活の改善を要求する一方で、対外的に関連諸機関への陳情もおこなったのでした。その結果、1960年代半ばになって厚生省が路線を変更し、療養所に職員が補充されることとなりました。施設運営に関わる諸々の作業も、多く新規雇用のプロパー職員によって担われることになったのです。また、1959年制定の国民年金法によって、翌1960年から療養所においても1級障がい者に障害福祉年金が支給されるようになりました。
ところで「らい予防法」が新法になった(1953)ことによる変化はゼロだったのか。かならずしもそうではありません。例えば、新法は施設長の懲戒検束権を廃止しました。これによって司法手続きを経ることなく所内決定で入所者の監禁・減食などの懲戒処分がくだされることは原則的にできなくなったのでした。しかし、やはりこの時期の療養所内の生活・入所者待遇をめぐる変化は「予防法の改定」を中心に多くを語ることには無理があり、全患協など運動全体のうねりのなかで理解すべきなのではないかな、というのが現時点での私の考えです。
有薗論文は、このような状況のなかで所内社会に格差が生じていたことを指摘します。つまり、年金を支給される者/されない者。そして、強制労働が減じたことによって所内生活にも多少の余裕ができ、軽症者や体力のある若い入所者は、高度成長真っ只中の「社会」の建設業に出稼ぎに通ったのでした。そうすると、所内の所得格差が生じるわけです。
『離された園』には園内作業に報酬が出るという記載があります。そこには「富の不均衡によって共同生活が乱れぬよう特殊技能にも高賃金を払わないのが原則」とあります。安く働いてもらう方便のようにみえなくもないですが、すでにここには所内に富の不均衡を気にせざるを得ない状況があったことがうかがえます。もっとも、所内の賃金を調整したところで、同書に掲載された写真の時期から10年も経たないうちに、1960年代になると有薗論文に書かれているように「外の社会」の建設業者からのお迎えのバスが療養所に来ていたそうですから、出稼ぎで稼ぐ人は稼いでいたので格差はいやがおうでも見えてきたのだと言えるでしょう。
そこで有薗論文が注目したのが、外に出稼ぎにいけない入所者たちを多く含んだ、所内の仲間集団による酒屋・賭博・ビニルハウスの製作と販売など、活発でときにやや破天荒な「経済活動」の展開でした。1970年代には高度経済成長も収束。その時代になるとそれまで出稼ぎに行っていた層もこうした活動に参加するようになります。有薗論文によると、一銭の稼ぎにもならないサークル誌などより、こうした稼ぐ活動はよほど活発だったようなのですが、これまでは積極的に注目されず(あるいは非公然活動としてなかば秘話とされ)、記録されてこなかったのです。
1970年代もすすんでくれば、療養所の新規入所者数も減り、退所する者は退所し、重症者や高齢者が所内に残り、療養所内人口構成の減少と高齢化がすすみました。社会的にも「予防法騒動」から20年の時間が経過して社会問題としての関心も薄れていった、坂田論文がハンセン病の〈終わり〉の時代と呼んだ時代になるわけです。
その後ーー現在にいたるまでに、ハンセン病の歴史にとって大きな出来事としては1990年代のなかば、1996年にようやく「らい予防法」廃止、ついで国賠訴訟が起こり、2001年に厚生労働省が原告団とハンセン病恒久対策について合意、2002年始めに熊本地裁で初の国賠訴訟和解が成立が挙げられます。われわれが最初に参考にした年表は、この時点で終わっています。
それからさらに20年が経とうとしている現在は、新規入所者数はほぼないまでに減少し、所内人口は超高齢化の時代を迎えています。国立療養所は一定の歴史的役割を終えつつあると言えるかもしれません。だからこそ、ではその歴史をどのような歴史としてふりかえるのかということは、その視点・視座によって異なる歴史化が可能ななかで、議論されるべきじゃないかと思います。
文献
有薗真代[2008]「国立ハンセン病療養所における仲間集団の諸実践」、『社会学評論』59巻2号、pp.331-348.
岩波書店編集部・岩波映画製作所 編[1956]『離された園』、岩波書店(岩波写真文庫188)
坂田勝彦[2009]「「終わり」と向き合うハンセン病者:過去の想起と共同性」、『ソシオロゴス』33号、pp.30-45.
岩波写真文庫『離された園』には、まさに1950年代央の療養所内のようすを伝える写真が多数収録されています。療養所のなかの社会も、外部社会との情報交信がテレビという視覚的メディアの登場によっていっそう高まったことが考えられます。同書のなかには、集会所の台の上に載せられたモノクロ・テレビの姿を数葉の写真のなかにみつけることができます。「予防法騒動」の字句もみつけることもできます。
さてではその後、療養所のなかの生活はどのようだったのでしょう。今回は「その1」で私の疑問として挙げておいた、1950年代以降の療養所内社会の変化に注意してまとめてみたいと思います。今週読もうとしている有薗論文[2008]論文は1960-70年代、先週読んだ坂田論文[2009]は1970-80年代の療養所をあつかっています。
有薗論文(3-1)によれば、全患協は1953年より施設運営のための事実上の強制労働に近い「患者作業」への反対運動を展開していました。かれらはストライキなどの戦術によって抵抗し、所内生活の改善を要求する一方で、対外的に関連諸機関への陳情もおこなったのでした。その結果、1960年代半ばになって厚生省が路線を変更し、療養所に職員が補充されることとなりました。施設運営に関わる諸々の作業も、多く新規雇用のプロパー職員によって担われることになったのです。また、1959年制定の国民年金法によって、翌1960年から療養所においても1級障がい者に障害福祉年金が支給されるようになりました。
ところで「らい予防法」が新法になった(1953)ことによる変化はゼロだったのか。かならずしもそうではありません。例えば、新法は施設長の懲戒検束権を廃止しました。これによって司法手続きを経ることなく所内決定で入所者の監禁・減食などの懲戒処分がくだされることは原則的にできなくなったのでした。しかし、やはりこの時期の療養所内の生活・入所者待遇をめぐる変化は「予防法の改定」を中心に多くを語ることには無理があり、全患協など運動全体のうねりのなかで理解すべきなのではないかな、というのが現時点での私の考えです。
有薗論文は、このような状況のなかで所内社会に格差が生じていたことを指摘します。つまり、年金を支給される者/されない者。そして、強制労働が減じたことによって所内生活にも多少の余裕ができ、軽症者や体力のある若い入所者は、高度成長真っ只中の「社会」の建設業に出稼ぎに通ったのでした。そうすると、所内の所得格差が生じるわけです。
『離された園』には園内作業に報酬が出るという記載があります。そこには「富の不均衡によって共同生活が乱れぬよう特殊技能にも高賃金を払わないのが原則」とあります。安く働いてもらう方便のようにみえなくもないですが、すでにここには所内に富の不均衡を気にせざるを得ない状況があったことがうかがえます。もっとも、所内の賃金を調整したところで、同書に掲載された写真の時期から10年も経たないうちに、1960年代になると有薗論文に書かれているように「外の社会」の建設業者からのお迎えのバスが療養所に来ていたそうですから、出稼ぎで稼ぐ人は稼いでいたので格差はいやがおうでも見えてきたのだと言えるでしょう。
そこで有薗論文が注目したのが、外に出稼ぎにいけない入所者たちを多く含んだ、所内の仲間集団による酒屋・賭博・ビニルハウスの製作と販売など、活発でときにやや破天荒な「経済活動」の展開でした。1970年代には高度経済成長も収束。その時代になるとそれまで出稼ぎに行っていた層もこうした活動に参加するようになります。有薗論文によると、一銭の稼ぎにもならないサークル誌などより、こうした稼ぐ活動はよほど活発だったようなのですが、これまでは積極的に注目されず(あるいは非公然活動としてなかば秘話とされ)、記録されてこなかったのです。
1970年代もすすんでくれば、療養所の新規入所者数も減り、退所する者は退所し、重症者や高齢者が所内に残り、療養所内人口構成の減少と高齢化がすすみました。社会的にも「予防法騒動」から20年の時間が経過して社会問題としての関心も薄れていった、坂田論文がハンセン病の〈終わり〉の時代と呼んだ時代になるわけです。
その後ーー現在にいたるまでに、ハンセン病の歴史にとって大きな出来事としては1990年代のなかば、1996年にようやく「らい予防法」廃止、ついで国賠訴訟が起こり、2001年に厚生労働省が原告団とハンセン病恒久対策について合意、2002年始めに熊本地裁で初の国賠訴訟和解が成立が挙げられます。われわれが最初に参考にした年表は、この時点で終わっています。
それからさらに20年が経とうとしている現在は、新規入所者数はほぼないまでに減少し、所内人口は超高齢化の時代を迎えています。国立療養所は一定の歴史的役割を終えつつあると言えるかもしれません。だからこそ、ではその歴史をどのような歴史としてふりかえるのかということは、その視点・視座によって異なる歴史化が可能ななかで、議論されるべきじゃないかと思います。
文献
有薗真代[2008]「国立ハンセン病療養所における仲間集団の諸実践」、『社会学評論』59巻2号、pp.331-348.
岩波書店編集部・岩波映画製作所 編[1956]『離された園』、岩波書店(岩波写真文庫188)
坂田勝彦[2009]「「終わり」と向き合うハンセン病者:過去の想起と共同性」、『ソシオロゴス』33号、pp.30-45.