2017年7月18日火曜日

リスク社会化(U. Beck)について

講義の最終2回分では、後期近代の特徴について、社会学者のふたつの代表的な議論を紹介しました。先週はギデンズ(Anthony Giddens)の「再帰性の徹底」。今週はベック(Ultich Beck)の「リスク社会化」でした。

ベックは前期近代においては富の再配分(そしてそれをめぐるコンフリクト)が問題だったのに、後期近代においてはリスクの再配分(そしてそれをめぐるコンフリクト)が問題となる、と言います。どういうことか。これを説明します。

まずはリスクという概念です。リスクという語自体は、日常語として使われています。でもそれは、危険という言葉とほぼいっしょの意味で使われています。しかしベックの場合、「リスク」は危険とはちょっとちがった概念だということがポイントです。

簡単に言えば、(1)後期近代における「リスク」は従来の「危険」に比べれば、見えにくいこと(不可視性)、そして予測や計算が難しいこと(計算不可能性)が大きな特徴です。また、(2)これらの「リスク」は、社会・経済・科学技術が発達することによって生じるものであることも重要です。従来は、社会・経済・科学技術が発達することは、さまざまな危険や不確実性を回避する方向だと思われていたからです。

もうすこし説明を加えましょう。まず(1)で述べた不可視性計算不可能性についてです。よく使われる例はテロや環境についてのリスクです。私たちは高度に情報化された世界に生きています。「テロリスト」はもちろんそれらの情報を駆使し、ときには操作しつつ「テロ」を実行します。「テロ」事態の発生や「テロリスト」の存在がメディアを通じて報じられる一方で、われわれからはもちろん「テロリスト」が何処にいるのかはまったく見えません。次回の「テロ」についての予測もできません。

環境リスクについては、2011年3月11日以降のわれわれはよく知っています。放射能は目にみえません。もちろんガイガーカウンターで数値として可視化できますが、しかしその数値がどのていどのリスクなのかは、専門家でも意見の分かれるところです。メディアがリスクについての情報を流します。それをわれわれが受容します。けれど、リスクの程度がガイドラインで示されたにせよ、どう対処すべきかは誰も示してくれません。

「テロ」も原発事故も、次の点で共通しており、ベックの言う「リスク」としての特徴を備えています。基本的には発生を制御することが困難です。発生したかどうかも、被害・影響が大きく派手でない限りは実は分かりにくい(爆弾テロではなくサイバーテロなどの場合、原発「事故」ではなく放射能「漏れ」であった場合を想像してください)。また、発生してからの影響が複雑であるゆえに、影響甚大であるが計算不可能であること。

さて、次に(2)で述べた点です。前期近代、とりわけベックが「単純なモダニティ」の典型とみた19世紀における古典的近代性は、ともかく人間文明の進歩は自然環境の征服・馴化の歴史であり、科学的な知識は自然を制御するためのもの、という思考を持っていた。つまり「自然」は人間社会にとっての「危険」や「不確実性」を体現していた。しかし人間のつくりだした産業社会は自然を囲い込んで、その「危険」も「不確実性」もほぼ内部化してしまった。どちらもゼロには絶対にできないけれど、予測し、計算することで回避したり補償したりすることができるようになった。保険というビジネスを考えてみてください。

しかし、高度に発達した科学技術は新たな「リスク」を生み出すことになった。情報化社会のもとで「テロ」はより複雑なものとなり(もっともメディアで報じられるもののなかには、この時代にしては不可解なほど単純なものもありますが)、科学技術の発達は原発の制御不可能なリスクを生じさせた。言い換えると、従来の「危険」は「自然」などと同様「すでにそこにあった状態(外在的)」だったけども、後期近代の「リスク」は「近代社会の活動が生み出した状態(内在的)」だというわけです。

こうした状況のなかでは、たとえば環境リスクを考えてみれば分かるのですが、「自然」は見えないリスクの運搬者となります。風や水は放射能を運びます。生鮮食品もさまざまなリスクをわれわれの食卓に運んでいるかもしれないのです。こうしたリスクのあり方は、3・11後の「風評被害」でわれわれがみたように、不安を社会全体にもたらすのです。

冒頭に戻りましょう。前期近代の富の再配分から、後期近代のリスクの再配分へ。こうした変化のなかで、政治の役割も変化します。富の配分の調整、つまり富や資源(予算)をどのように配分し(どこの、なにに使うか)、「いかに社会や経済を発展させるか」を決めていくのが政治のほとんどだったのが前期近代。後期近代においては、それだけではなく「科学技術はリスクを生み出すが、その場合のリスクをどう処理するか」というリスクの配分が政治の重要問題として浮上します。

しかし、配分する(すべき)ものである「富」と「リスク」とはまったく性質がちがう。富は経済・政治活動の結果、分布する(階層・階級間で不均等に!)。一方リスクは、基本的には人間の活動とは関わりなく無差別に影響する。どんな人もリスクから自由ではいられない。だが、地域間での不均等配分はありえる。その不均等な配分は政治的な決定である。国内の原発の立地について考えてみてください。あるいは国境を越えて、第三世界(いわゆる発展途上諸国)に有害物質が輸送されることを考えてみてください。そのような地域間でのリスクの不均等な配分は、政治的な帰結なのです。

さて、こうした新たなリスクの登場により、2つの動きが生じます。第1は経済面で、リスクがビジネスになる。いったんこうしたリスクが社会の不安を生じさせると、そこに需要が生まれます。保険というビジネスは「テロ」や環境リスク問題には適用できません。リスクや被害の程度を測定することが極端に難しいからです。リスク不安という需要に対応するビジネスは、たとえば健康食品・自然食品などのビジネスやセキュリティビジネスでしょう。ちなみに「健康」についての考え方はリスク社会化の前後でちがうと思います。以前は「病気になったら病院」でシンプルでしたが、いまは「よりよく健康的であるかどうか」という非常に定義も測定も難しいことをテーマに自己管理を推奨する、リスク不安を煽るビジネスがいろいろあります。たとえば、ダイエット(食事制限・体型管理)ビジネスを考えてみてください。

第2の動きは政治面で、先に述べた後期近代になって出て来たリスク配分という新たな課題を扱わなければならなくなる状況です。高度に発達した科学技術はもともと政治がコントロールする範囲の外だとされていた(本当はそうではないと思うけど)。しかし、リスク配分が課題となった以上、科学技術やほかのいくつかの領域についてまで、政治の守備範囲が広げられる。もともと政治では扱いきれないのにも関わらず、政治の扱う領分は広がる。こうした不確かでどっちつかずの政治的領域を指してベックは「サブ政治」と呼びます。

以上を理解してもらったうえで、講義配布レジュメをもういちど読んでもらえば、理解がすすみ、定着するかと思います。

ベックはドイツの社会学者で、著書『リスクのゲゼルシャフト(邦題:危険社会)』は社会学の本としては例外的ベストセラーとなりました。本を読めば分かるように、ベックはおもに環境リスクについての論者です。この本がヨーロッパで出版されたのは1986年。たまたまですが、同じ年にチェルノブイリ原発事故が発生しました。そういうタイミングのよさ(といえば不謹慎かも)がベストセラーに繋がったのかもしれません。少し前まで、ギデンズと並んで存命の社会学者のなかで、社会学というジャンルを超えてもっとも有名な人のひとりだったのに、残念ながら2015年に亡くなりました。ギデンズが追悼文のなかで、リスク社会という概念の要点を述べています。


参考文献
ウルリヒ・ベック(東廉、伊藤美登里訳)『危険社会:新しい近代への道』法政大学出版局、1998年(原著は1986年)
今田高俊「リスク社会と再帰的近代:ウルリッヒ・ベックの問題提起」、『海外社会保障研究』第138号、国立社会保障・人口問題研究所、pp.63-71、2002年