2015年1月28日水曜日

参与観察について

参与観察(participant observation/participate observation)とはなにか、社会学や社会調査の教科書にはかならず書かれています。用語、方法、歴史については教科書とか社会学事典とかwebで説明をみてください。ここではその方法をとることの意義を説明します。

どんな社会集団でも、その中の人(成員)に独特の規範(慣習、暗黙のルール)を発達させています。その規範を通して、いろいろの社会事象や他人の行為についての解釈がなされます。かりに社会集団の数だけ規範が存在するとすれば、客観的には同じであるようなある社会事象Xや行為(動作)Yについての解釈も、同じ数だけ存在することになります。こうしたそれぞれの社会集団における解釈のあり方はいわば「ローカルなものの見方(ローカルモデル、1次モデル)」です。社会集団への参与観察をすることの第1の意義は、このローカルモデルへの接近です。

第2の意義は、ローカルモデルを抽出することで、これまであった社会事象や行為、社会集団についての一般的な見方に修正を加えることです。この一般的な見方を「2次モデル」と呼びましょう。たとえば社会集団・社会事象について「ギャングの支配するスラムは無法地帯だ」という2次モデル(2次モデルa)があるとします。ところが参与観察によってローカルなモデルが抽出され、ギャングはギャングなりの規範があり、スラムにはスラムなりの秩序があるという新たな理解が成立する(修正2次モデル=2次モデルb)という具合です。

行為については、目くばせの例を使って考えてみましょう。客観的には「片目のまぶたをいったん閉じてまたすぐに開く」のように記述できる「動作」も、社会集団によってさまざまな社会的意味をもった「行為」として解釈されます。いま、単純に3つの社会集団を想定します。アメリカ人社会(ウインクを知っていて、ふだんウインクする)、ウインクという外来の習慣が入ってくる前の明治期の日本人社会(そもそも知らない)、ウインクという習慣は知っているがふだんとくにはやらない現代の日本人社会。これらの3社会で比べてみて、同じ動作でも「行為」としてもつニュアンスはずいぶんちがってくるはずです。

明治期と現在の日本人社会では、目にホコリが入ったんだろうとか、くせのあるまばたきだとか、アメリカンのふりしてフザけているのだとか。また、ウインクがふつうに通用しそうなアメリカ人社会のなかでも、どんなときにウインクするかは、アメリカの中にあるそれぞれの小さな社会集団のあいだでちがうかもしれない。(そして、世界にはわれわれの知っているウインクとはちがった目くばせの意味をもっている社会集団があるかもしれません。)ここから出てくる答えは、①それぞれの社会集団の目くばせについての1次モデルが分かる(多様性、おもしろい!)、②それによって、たとえばアメリカ人社会のウインクという行為へのそれまでの一般的理解(2次モデルa)について相対化(異化)して考えることができる(2次モデルb)ようになる、というものです。

参与観察は、フィールドワークにおける1次モデルへの接近と理解を可能にし、2次モデルの修正(2次モデルa→2次モデルb)をめざすということでした。

以下は余談。

上に書いた目くばせの話は、アメリカの文化人類学者ギアツ(Cliford Geertz; 1926-2006)が言っていたことが元ネタです。かれは、参与観察である社会を調査する意義のひとつを、「厚い記述(thick description)」ができることだと言いました。このエントリーで言えば「1次モデルへの接近」です。たとえばある人物がおこなった目くばせを「秘密のたくらみがあるかのように友人をだますため、ウインクの真似ごとをする」というところまで解釈するには、参与観察をおこなってその社会集団で共有されている規範や文脈、社会関係への理解がなければ不可能なのであり、その理解をふまえた行為や社会事象記述が「厚い記述」なのです。

【文献】
C.=ギアーツ(吉田・柳川・中牧・板橋 訳)『文化の解釈学[1]』岩波書店、1987年(原著は1973年)