2015年1月29日木曜日

学生のみなさんへの但し書き

このblogは、ひとつのエントリーを書くのにだいたい1時間、長くて2時間ほどしかかけていません。その点、本や論文に印刷される原稿にくらべれば内容の厳密さや正確さは劣ります。

いちばんいいのは本や論文を読んで勉強することです。次にいいのはこのblogを定期的に読み直すこと(まちがいや分かりにくいところは時々修正しています)と、質問やまちがいの指摘に来てくれることです。

よろしくお願いします。

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[2015.2.15 加筆]
各エントリーには参考文献の情報を載せています。詳しくつっこんで勉強したい人は、ぜひ直接あたってみてください。ほとんど図書館に所蔵されていますし、ない場合は私に尋ねてください。

2015年1月28日水曜日

参与観察について

参与観察(participant observation/participate observation)とはなにか、社会学や社会調査の教科書にはかならず書かれています。用語、方法、歴史については教科書とか社会学事典とかwebで説明をみてください。ここではその方法をとることの意義を説明します。

どんな社会集団でも、その中の人(成員)に独特の規範(慣習、暗黙のルール)を発達させています。その規範を通して、いろいろの社会事象や他人の行為についての解釈がなされます。かりに社会集団の数だけ規範が存在するとすれば、客観的には同じであるようなある社会事象Xや行為(動作)Yについての解釈も、同じ数だけ存在することになります。こうしたそれぞれの社会集団における解釈のあり方はいわば「ローカルなものの見方(ローカルモデル、1次モデル)」です。社会集団への参与観察をすることの第1の意義は、このローカルモデルへの接近です。

第2の意義は、ローカルモデルを抽出することで、これまであった社会事象や行為、社会集団についての一般的な見方に修正を加えることです。この一般的な見方を「2次モデル」と呼びましょう。たとえば社会集団・社会事象について「ギャングの支配するスラムは無法地帯だ」という2次モデル(2次モデルa)があるとします。ところが参与観察によってローカルなモデルが抽出され、ギャングはギャングなりの規範があり、スラムにはスラムなりの秩序があるという新たな理解が成立する(修正2次モデル=2次モデルb)という具合です。

行為については、目くばせの例を使って考えてみましょう。客観的には「片目のまぶたをいったん閉じてまたすぐに開く」のように記述できる「動作」も、社会集団によってさまざまな社会的意味をもった「行為」として解釈されます。いま、単純に3つの社会集団を想定します。アメリカ人社会(ウインクを知っていて、ふだんウインクする)、ウインクという外来の習慣が入ってくる前の明治期の日本人社会(そもそも知らない)、ウインクという習慣は知っているがふだんとくにはやらない現代の日本人社会。これらの3社会で比べてみて、同じ動作でも「行為」としてもつニュアンスはずいぶんちがってくるはずです。

明治期と現在の日本人社会では、目にホコリが入ったんだろうとか、くせのあるまばたきだとか、アメリカンのふりしてフザけているのだとか。また、ウインクがふつうに通用しそうなアメリカ人社会のなかでも、どんなときにウインクするかは、アメリカの中にあるそれぞれの小さな社会集団のあいだでちがうかもしれない。(そして、世界にはわれわれの知っているウインクとはちがった目くばせの意味をもっている社会集団があるかもしれません。)ここから出てくる答えは、①それぞれの社会集団の目くばせについての1次モデルが分かる(多様性、おもしろい!)、②それによって、たとえばアメリカ人社会のウインクという行為へのそれまでの一般的理解(2次モデルa)について相対化(異化)して考えることができる(2次モデルb)ようになる、というものです。

参与観察は、フィールドワークにおける1次モデルへの接近と理解を可能にし、2次モデルの修正(2次モデルa→2次モデルb)をめざすということでした。

以下は余談。

上に書いた目くばせの話は、アメリカの文化人類学者ギアツ(Cliford Geertz; 1926-2006)が言っていたことが元ネタです。かれは、参与観察である社会を調査する意義のひとつを、「厚い記述(thick description)」ができることだと言いました。このエントリーで言えば「1次モデルへの接近」です。たとえばある人物がおこなった目くばせを「秘密のたくらみがあるかのように友人をだますため、ウインクの真似ごとをする」というところまで解釈するには、参与観察をおこなってその社会集団で共有されている規範や文脈、社会関係への理解がなければ不可能なのであり、その理解をふまえた行為や社会事象記述が「厚い記述」なのです。

【文献】
C.=ギアーツ(吉田・柳川・中牧・板橋 訳)『文化の解釈学[1]』岩波書店、1987年(原著は1973年)

2015年1月23日金曜日

社会学A_2014の試験

人文1F掲示板にも掲示していますが、来週2月4日(水)実施の2014年度「社会学A」試験で持ち込み可の資料は

  • 自作のノート
  • 講義時配布のレジュメ

のみで、他は認めません。このwebサイトも参考にして、事前にしっかりノートを作成しておいてください。

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試験は終了しました。受験者のみなさんおつかれさまでした。

2015年1月16日金曜日

メモ→ノーツ、データの行き先

昨日の社会調査実習の時間に、個人報告書の作成過程で気がついた今年度の実習調査の反省点、来年度実習や卒論調査に生かせる点などを言ってもらいました。あがったのは2点(2人)だけでしたが、どちらも重要だったので以下に覚え書きします。

1)フィールドでの記録(メモ→ノーツ)

  • 実習時間前などに、調査時に書き付けた調査メモを見返すと、「データ」としては中途半端な記載しかないので悔やまれたことが何度もある。

→ もっともな難点。観察についてはその場でできるだけ克明に、余分だと思われるものでもどんどんメモする(人にみせるための記録じゃないし)。観察内容は、あとになって思い出せないものごとが多い。現場での聞き取りメモについては、人のしゃべりをすべてあまさず記していくのは絶対無理。だけど内容はけっこう頭の中で憶えていて再生できる。


→ だから現実的には、①その場で的確なメモをとること、②時間をおかずメモを補足すること(その日の夜とか)、の2つが重要。インタビューは録音記録を取っている場合も、かならずメモはつくる。相手のしゃべったことは克明に録音されるが、メモは自分が相手の話のどこが気になっているかの記録でもあり、のちのノーツ作りのときにメモはその効力を発揮する。

  • 写真も、撮るのを忘れていたものがあって、撮っておけばよかったと後悔。

→ 実習調査の場合、グループワークだから写真係が撮る。撮ってほしいものは指示すればいい。役割分担したら遠慮しない。これ、就職してからもグループワークの鉄則。あるいは、係にまかせず自分でもスマホでどんどん撮る癖をつける。これは個人プレイの卒論調査では必須。


2)データをレポートに(データの行き先)

  • インタビューをおこなった内容で、個人報告書には盛り込めなかったものがたくさんある。①興味深い内容だったのでとても惜しいが報告書の流れの中にどう組み入れていいのかわからなかった、②報告書はインタビュー先の方々にも配るので申し訳ない。

→ もっともな難点。フィールド調査にもとづくたいていの報告書や論文は、調べて得たデータの3割未満しか完成稿に反映されていない。だが、自分の興味深いとかんじたデータはできるだけ、どこになぜ興味があるのか、興味深い点と全体の流れ・論旨とのあいだにどのような位置関係があるのかを熟考し、場合によっては1章分増やすくらいのつもりで試行錯誤する(今回は時間不足か)。

→ 複数年にまたがるテーマの調査実習なら、今回の個人報告書で生かせなかったデータも、全体報告書や来年度の調査に生かせる可能性はあるので、データを引き継ぐようにする。ただし卒論は個人プレイなので、あくまでがんばって卒論に組み入れる。ひとりだと煮詰まるので同級生や教員(私)に相談する。

2015年1月10日土曜日

再帰性の徹底(Giddens)について

さて、前回エントリーは社会学が近代を取り扱うときに、近代性(modernity)の理論的前提と考えることについて述べました。脱埋め込みというのがkey ideaでした。今回はもうひとつ超重要概念として「再帰性(reflexivity)」について説明していきます。参考書は、前回挙げたAnthony Giddensの本。「再帰性」は、ギデンズが近代における社会のあり方の特徴(とくに後期近代を記述するときに用いたコトバです。社会学以前のコトバの意味としては、reflex-ibilityだから、反射-可能性とか反省-可能性とか。

ここでの社会学者の想定はシンプルです。前近代の伝統社会は変化しない(冷たい社会)。近代社会はつねに変化する(熱い社会)。常に変化する、とは単に前回エントリーの「直線的な時間観でもって未来を設計の対象とし、不可逆的に進歩・発展していく」という近代的社会観や、工業化後の科学技術革新と経済の成長スピードの加速、といった意味合いだけではない。社会的意味の世界でも変化は常で、その変化のあり方がとても特徴的です。

再帰的な振る舞いについて、私はひとまず「あえて(自覚的に)~するという態度」のように言い換えます。つまり、自分の振る舞いを客観するかのような視点をもって振る舞うこと。その当然の結果として個人や社会の素朴でない複雑なあり方を生みます。それは近代の制度がつねに諸個人の行為を自己チェックし、社会の新たな意味を見いだし、反省と改善を迫るという点と関係している。そしてこの再帰性が「つねによりよい合理的な方向への変化」を方向付けるとは限らない、というのがこの概念のもうひとつのポイント。

通常の生活者は、自分が空気のように浸っている自社会や自文化については説明できない。そもそも文化は「実践する」ものであって「説明する」ものではないからです。たとえば、われわれは葬式では白黒幕、入学式では紅白幕を会場に張る。かりに日本文化のフィールドワークしているアメリカの大学院生に「なぜそうするのか、白黒や紅白の象徴的な意味は何か」と尋ねられたところで、それらの意味や歴史的ないわれについて説明することはふつう(調べものをしない限り)できません。ただし、我々は紅白幕と白黒幕を取り違えること(お葬式に紅白幕を張ったり・・・)は決してない。文化は「実践する」ものであって「説明する」ものではない、と私が言うのはそういうことで、これが自社会や自文化に対する素朴な態度です(「伝統」に対する素朴な態度、と言ったほうが正確かもしれない)。

ところが社会の再帰性が増してくると、自分のふるまいに対する自覚的な態度がそこここに見られるようになってきます。「説明する」ということではないかもしれませんが、どこかに自社会や自文化、ないし社会のなかでのカテゴリカルな自分について、すでにある説明を意識しながら行為するような態度が出てくる。誰も、素朴ではありえない。

  • いずれの文化においても、社会の実際の営みは、その営みのなかに絶えず供給されていく新たな発見によって日々手直しされていく。しかし、慣習の修正が、物質的世界への介入も含め、原則として人間生活のすべての側面に徹底して及んでいくようになるのは、近代という時代がはじめてである。[ギデンズ 1993; p.56]

つまり社会が再帰的に変化するというのは前近代の伝統社会でも部分的にみられた。しかし、近代社会の特徴はそれとの決定的な程度のちがいにあり、再帰性は徹底しているとギデンズは言う。そしてこの徹底した再帰性は、われわれの社会をつねに安定的に変化させるとも限らない、と。

こうした社会の再帰性にいちばん貢献しているのが、じつは社会調査です。ギデンズも言うように、社会調査と現実社会との関係は、「社会学・社会科学は〈社会〉を対象にした活動でもあり、かつ〈社会過程〉を構成する一部でもある」という複雑な入れ子状のものです。社会学は〈社会〉を観察しますが、社会調査という社会学の活動もその〈社会〉のなかに含まれ、社会調査の結果はその〈社会〉に影響を与えます。
たとえば、結婚しようとするとき、ただ情熱に突き動かされてダダッと結婚する人もいるでしょうが、多くの人は自分の年齢・収入・ステイタス(学生・勤め人・バイトetc.)で結婚するとは現在の社会においてどうなのか、ということを気にします。各種社会調査は、2010年代の日本で結婚がいったいどのようにおこなわれているのかについて、統計情報を提供するのです(こちらは→厚労省統計)。TVなどのメディアにおいて、社会学者をはじめとした有識者がコメントする内容の元ネタに、これらの社会統計は使われます。それを視聴するわれわれは、いまの社会のいまの自分のステイタスで結婚することはどうなのかをあらかじめ知り、するか・しないかを決めていく。

こうした決定は、ただちにその〈社会〉の現実の一部を構成しますから、〈社会〉が先か、統計が先か、よく分からなくなりますね(ニワトリとタマゴの関係)。少なくとも、〈社会〉の観察結果が統計だという「〈社会〉→統計」の一方向的な関係を素朴に想定すべきでなく、「社会〉→統計→〈社会〉→…」という図式で理解すべきでしょう。再帰的関係とはまさにそういうことです。

かくして再帰的運動をもった変化が続いていくのが近代社会。以前も触れたように、統計の歴史は近代国家の歴史とともにあると言っても過言でない。近代においてはこうした再帰性を生むさまざまな知識が存在する。社会活動および自然との物質的関係の大半の側面が、新たな情報や知識に照らして継続的に修正を受けやすいのです。

社会における知識や社会観、自己観が再帰的でしかあり得ないという状況は、人間や社会を安定させるというよりはより動的に複雑に、そして不安にさせる。この側面が、社会学では注目されています。

  • モダニティは再帰的に適用される知識のなかで、またそうした知識をとおして形成されていくが、知識を確信性と同一視するのは、誤りであることが判明していった。われわれが方向感覚を失って生きる世界は、再帰的に適用された知識によって徹底的に形成されているが、同時にそうした知識の構成要素がいずれも修正を受けないと決して断言できない世界なのである。[ギデンズ 1993; pp.56-57]

前回の講義では、近代的な理性のあり方の前提のひとつには、時計時間があると述べました。時計時間の前提ゆえに、われわれは計画し、未来を設計の対象にするのだと。そしてそれは、中長期的な不確実性を減じていくという態度なのだと。

たとえば工業化も農業の近代化もとっくに果たした先進国の人間からみれば、アフリカ地域農村は、天水農耕(灌漑はなく雨に依存した農業)はじめ、いろいろと不確実性にさらされた「伝統的」世界にみえます。開発援助はそうした社会的状況から不確実性(に起因する貧困)を除去していこうとする活動ということになります。一方の、知識も技術も発達した先進国の後期近代は、その意味での不確実性は比較すればずっと低減しているはずなのですが、この再帰性の徹底ゆえに、なんとなくの不確かさの感覚が常にあるのです。

【文献】
A.=ギデンズ(松尾精文・小幡正敏 訳)『近代とはいかなる時代か?モダニティの帰結』而立書房、1993年(原著は1990年)

2015年1月7日水曜日

近代化の基礎(参考書)

2014年度後期「社会学の基礎」私担当分の1回目は、社会学がどのように近代を考えるかについてざっと述べました。ルネサンス、宗教改革、市民革命、産業革命。西洋の近代化の基礎を作ったイベントとされるこれらについては、高校世界史の参考書として;

  • 木下・木村・吉田編『詳説世界史研究[改訂版]』山川出版社、2008年

があります。これを持っている方は、第9章「近代ヨーロッパの成立」と第10章「ヨーロッパ主権国家体制の展開」、第11章「欧米における近代社会の成長」をぺらぺらおさらいしてみてください。

政治経済的に大きなイベントの流れとして歴史を把握することは、基礎勉強として重要です(私もおさらいしなくては)。しかし高校世界史は少ない分量でまんべんなくカバーしなければならないし、「史実記載」のスタイルを採っていて、著者によるそれぞれの史実に対する意義付けや解釈をできるだけ書き込まないように遠慮しているため、特定のテーマについて論じられているわけではありません。

社会学は、高校世界史とはもう少しちがった、たとえばその時代に普通に暮らしていた人たちがどのように近代や近代化を経験したのかに着目したり(歴史社会学や社会史)、近代性の条件やメルクマール(目印)となる要素を抽出して近代的世界を理解しようとします(理論社会学)。

講義では時計時間の発明の話をひとつの軸としました。たとえば近代的な時間の流れの歴史社会学は;

  • 福井憲彦『時間と習俗の社会史ー生きられたフランス近代へ』新曜社、1986年

理論的なものでは;

  • 真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店同時代ライブラリー、1991年(原著は1981年発表)

があります。ローカル世界から脱し、近未来を設計の対象ととらえて思考する近代的理性は時計時間という前提と切り離せません。機械時計が普及するのはだいたい18世紀から19世紀への変わり目です。福井(1986)は、機械時計が発明され都市の威信の象徴(大きな時計塔)だった17−18世紀から、鉄道、学校、工場という近代化の社会経済的インフラと密接にかかわりながら普及していく具体的なイメージが前半で把握でき、後半で、5月からスタートして4月まで、1年をめぐるかたちで、時計時間が普及する前のフランス農村のくらしのようすが紹介されています。

人類学や社会学のモデルが言ったように、前近代/近代では、人びとの社会意識のなかでの時間の流れは円環的/直線的と表現できるような対比で、社会の状態は冷たい社会/熱い社会のような対比で表現されるようなものとなります。前近代的農村共同体のローカルな時間の流れは毎日の陽の出・陽の入り、一年の農耕暦(耕起 - 播種 - 除草 - 収穫etc.)とともに「繰り返す」もの。

社会人類学者E. Leachによればこの繰り返しは円環的というより、振り子のように振動的だ。現代の我々が現在に軸足を置きつつもつねに未来を気にして「現在-未来」という直線的なパースペクティブで時間を把握しがちなのに対して、前近代の共同体では「過去-現在」の円環/振動で時空はイメージされ、過去はつねに潜在する現在としてある。つまり、前近代では時間はつねに具体的内実(社会事象)を詰め込まれたもの(すでに経験された過去中心だから)であるのに対し、近代では抽象化された時間の流れとなっている(未経験の未来へと連続する時間という概念そのものとしてイメージされているから)。→ 続きは真木(1991)で。

さて。前近代のローカな共同体たちはいかして脱ローカル化し、近代的な時空間が実現するか。近代化は全体としては近代国家成立の過程であり、前期近代においては都市化と工業化をその社会変化の最大の特徴とする。ここに出てくるのが、前近代的農村のローカルな共同体の崩壊のストーリーで、第2次大戦後の日本の社会科学ではこのストーリーを下敷きにした発展段階論・近代化論が盛んでした。たとえば経済史学では、イギリスの囲い込み運動(エンクロージャー)を農村-都市人口移動と農村共同体崩壊の契機としているのが定番です。

社会学はこうした「史実記載」による共同体崩壊のストーリーによる近代化把握とは別に、近代化にドライブがかかる契機を理論的に検討しようとします。近代的なものの考え方ということで言えば、合理化・均質化という面が大きな特徴。たとえばイギリスのA. Giddensは、貨幣と時計時間などの象徴的通標がいろいろな社会事象をローカルな文脈からの脱埋め込みを促進する、というのが決定的な要点だと言います。詳しくは;

  • A.=ギデンズ(松尾精文・小幡正敏 訳)『近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結』而立書房、1993年(原著は1990年)

の第Ⅰ章あたりを読んでほしいのですが、要するに貨幣や時計時間が、われわれがいま自由に移動し、いまいるローカルな社会にわれわれ自身のコミュニケーションをつねに帰属させることなく(目の前にいない人や状況との)自由な範囲でやりとりできる、そういう状況が実現するには必須の前提となっているということ。

いまいる特定の現場(locale)にしばられない。これは時間も空間も特定のローカルな文脈(事情)に左右されない標準化されたものとなってはじめてそれが可能なのであり、このローカル世界からの標準化作用をギデンズは「脱埋め込み」と呼びます。別の言い方では、時間と空間の空白化(自由な書き込みや計画の対象となりうるという意味で)とも言っています。この脱埋め込みに欠かせないツール(象徴的通標、token)の代表格が近代貨幣と時計時間だというわけです。

ここでは「時間」を中心に紹介しましたが、もうひとつの「貨幣」については上記のギデンズ本のほかに以下の参考書を挙げておきますので、興味のある人は読んでみてください。

  • 内山節『貨幣の思想史ーお金について考えた人びと』新潮選書、1997年